日中学院校友会講演会 重慶爆撃を考える 石島紀之(フェリス女学院大学名誉教授)

皆さん今日は。いま紹介していただきました石島です。
私は1960年、大学3年のときに後期に倉石講習会に入り中国語を勉強し始めました。当時の倉石講習会は善隣会館という今の日中友好会館にありました。中国人の学生たちもいて、今とは随分違う雰囲気でした。1年半日中学院で勉強しました。80年代になってやはり中国語を勉強しなくてはいけないと改めて思って勉強を始めたときに、1年半倉石講習会で中国語を学習したことがとても役に立ちました。当時の倉石講習会は中国語の発音を非常に重視するというとことで、発音の基礎がそのときにできたと思っています。
私は去年の3月まで大学の教師をしていたので、やや話が講義調になり、少し堅い話になることをお許し下さい。
重慶の地形および気候
皆さんの中で重慶にいらしたことにある方どれくらいでしょうか?結構いらっしゃいますね。私が重慶に初めて行ったのが、1988年の暮れでした。その当時はまだ昔の重慶の面影が沢山残っていました。私はどちらかというとあの時代の重慶の方が好きですけれども、今は余りにも近代化されすぎたという感じがいたします。去年9月に重慶に行きましたが、重慶の人は中国で高層ビルが一番大きい都市だといって威張っていました。
現在重慶は中央政府の直轄地ですが、かつては四川省に属し、成都と並ぶ大都市でした。念のために重慶の場所を確認したいと思います。中国全土の地図がありますが、長江を西へと遡り、さらに下の地図を見ますと、重慶は長江と北のほうから流れてきている嘉陵江がぶつかったところにある町です。
さらに大きくした重慶の地図がありますけれども、何をご想像になるでしょうか。アヒルにも見えるし、犬にも見えますが、中国の人は龍だとよく言います。中国人は龍が好きですから。龍のような姿の都市です。今は重慶市というのはものす

ごく広がっていまして、周りの農村地帯やさらに、多くの都市を含んでいて中国で最大の面積を持つ都市ですが、本来の重慶とは、この2つの河に挟まれた龍の様な形をした町です。
資料を見ますと、重慶というのは長江からずっと登って行くかなり高い場所にあるのです。重慶の別名は山城、中国語でshāngchéngといいます。実はかつて重慶が繁栄していたのは、長江流域のほうでして、長江に面した方で、大体長さが3キロメートル、幅が300~600メートル位あります。日本語では下半城、中国語ではxiàbànchéngというのですけれども、このあたりが秦の時代までの重慶の中心地です。長い間重慶の都市の歴史は十分研究されてこなかったのですが、今は重慶の歴史の復興が進んでいて、この下半城にあったかつての秦朝の時代の商人たちの遺跡が発掘されています。
今の重慶の中心部は、上のほうの上半城です。地図を見ていただきますと、この2つの河がちょうど合流しているあたりが朝天門です。この朝天門からずっと石段があり、ある人が数えたところによると480段、私も登ったことがありますが、随分大変な坂道です。ここを登ったところが、今では重慶の中心地になっています。重慶は二つの河に挟まれているため、11~4月にかけて霧が大変濃い街なので、霧の都といいます。また、重慶は夏が暑いので有名です。重慶と南京と武漢、長江にある3つの街が3大ストーブと称されています。去年の9月に、重慶で日中戦争についての国際会議があって行って来たのですが、9月初旬の重慶は40℃でした。ものすごく暑くて本当に大変でしたけれども、重慶の人も十数年ぶりの暑さだといっておりました。重慶は大変特徴のある都市です。
重慶の歴史
次に重慶の歴史ですが、春秋戦国時代には、成都の周辺に蜀という国があり、一方、重慶を中心として巴という国がありました。秦が中国を統一した後、重慶は巴郡と呼ばれます。隋唐の時代は渝州と呼ばれました。渝という字は今でも重慶の別名となっております。宋の時代は恭州と呼ばれました。重慶という名前ができたのは、南宋の時代の1189年です。なぜ重慶という名前になったかと言うと、この時に、南宋の光宗という人が皇帝になりました。光宗という人は、父親の皇帝の時代に、恭州の統治者として任じられました。そして1189年に皇帝になった。ですから彼にとっては二重の喜びがあるということで、この街を“重慶”二重の喜びという名前にしたわけです。
重慶は元々軍事的な都市だったのですが、長江と嘉陵江と言う二つの川に挟まれていて、当時大変交通が便利、特に水運が便利だったものですから、やがて、四川省の最も重要な商業都市になりました。さて、ずっと時代が下って、重慶が外国に向かって開港するのが、1891年。清末の時代です。この時から重慶の都市としての近代化が始まります。ら辛亥革命の時には四川省は辛亥革命の中心の一つになり、四川省にも革命政府ができましたが、重慶には蜀郡政府という革命政権ができました。しかしその後、中華民国-1912年にでき、1949年に国民政府が台湾に移るまでが中華民国の時代です-は、始めは孫文たちが指導者でしたが、やがて袁世凱が中華民国の覇者になり、袁が1916年に死ぬと、後は北京に政府ができ、いわゆる軍閥割拠の時代になりました。四川省は、この軍閥割拠の典型的な場所です。沢山の軍閥が四川省の覇権を巡って争います。特に重慶は商業の中心地ですから、重慶をつかむということは四川の軍閥にとって非常に重要な意味がありました。やがて、1926年劉湘という軍人が重慶を支配します。中華民国は1927年に蒋介石が共産党を弾圧して、翌年に正式に南京に国民政府をつくりました。この南京の国民政府によって中国の統一が進みます。中国共産党は農村地帯でソビエト革命というのを進めるのですが、全体としては国民党の国民政府が中国の統一を進めていくのです。劉湘も四川省、重慶の支配を確立した時期というのは、丁度この時期にあたっています。そして劉湘は蒋介石と次第に手を組んで四川省の覇者になっていくわけです。
重慶市の成立と国民政府の重慶支配
さて、正式に重慶市というのができるのが、1929年です。重慶の二つの河が合流する地域が朝天門、さらにそこから重慶を西に進むと、北に臨江門があります。真ん中に通遠門、南に南紀門という3つの門があります。かつての重慶というのはこの地域に限られた、非常に狭い地域であったのです。しかし1929年以降重慶の近代化が始まり、都市の面積がどんどん広がっていきました。道路も幹線道路が中心部と南のほうに作られていきます。それから、重慶は岩山だったものですから、今でも自転車が少ないのですが、かつては駕籠がもっとも重要な交通手段だったのです。この時期になってくると人力車が出てきたり、自動車が出てきたりします。それから電灯や水道が整備され、重慶の近代化が1930年代に進んでいきます。そこに国民政府の支配が及んでいきます。なにがその契機になったかと言うと、中国共産党が1934年10月に江西省の瑞金から、国民政府軍によって追い出されてしまって、有名な長征を始めるわけです。西へ西へと共産党の軍隊(紅軍)が国民政府軍に追われながら、進んでいくわけですけれども、それを追って国民政府軍が四川省に入ってきます。それが、蒋介石国民政府軍が四川省を押さえていく大きな契機になります。1935年1月国民政府は劉湘の四川省の支配を認める代わりに、参謀団という蒋介石直属の軍事集団を重慶に入れます。11月には重慶行営―これは司令部と考えて下さい―を設置しました。こうして国民政府は重慶を中心として四川省を来るべき日本との戦争の本拠地にしようと考えて、その体制がだんだんできてくるわけです。1937年7月7日に盧溝橋事件が起こります。そして、上海が戦場になります。11月には上海が陥落します。その後日本軍は幾つかに分かれて国民政府の首都南京に向かって、進撃をいたします。12月13日には南京が陥落します。このようは状況の中で国民政府は12月1日重慶に首都を移したわけです。重慶が国民政府の戦争中の首都に選ばれたのは、日本軍の占領の及ばない地域で、周りが山に囲まれ、一定の近代化が進んでおり、さらに四川は物資が非常に豊富であるからです。それにともなって工場や学校、文化施設が移転し、様々な知識人たちもやってきます。上海の有名な復旦大学も重慶に校舎を建てました。これに対して、日本軍の重慶に対する爆撃が始まります。
一.空爆の歴史のなかの重慶爆撃
空爆の歴史
重慶爆撃は1938年2月から始まり、最後に終わるのが1943年8月です。ただし、重慶に日本軍が集中的に無差別爆撃を行ったのは、後で詳しく述べますが、1939年から1941年までです。そこで、重慶の空襲の歴史に入る前に、まず、世界の歴史において空爆がどのような形で進行したのか、その中で重慶爆撃がいかに位置づけられるかをお話します。
初めて飛行機によって空爆が行われたのが、1911年イタリア・トルコ戦争です。イタリア軍がトルコに対して爆撃を行いました。それから今日のアフガニスタンへの爆撃に至るまで20世紀はまさに空爆の時代だったわけです。よく20世紀は戦争の世紀と言われますが、空爆の世紀と言ってもいいかもしれません。20世紀になって戦争の犠牲者はどんどん増えていきます。特に民間人の死者が急速に増えていったのが20世紀の戦争の特徴です。例えば第一次世界大戦のときの民間人の死者は5%です。それが第2次大戦になると66%に増え、さらに70年代以降の戦争では80%以上が民間人と言われています。この数字がどこまで正確か色々と議論がありますが、とにかく民間人の死者がどんどん増えたのは間違いありません。その大きな原因が空爆にあります。
空爆の思想
では空爆についてはどのような考え方があるのか。少しさかのぼりますが、1899年にオランダのハーグで開かれた戦争の問題を議論する会では、早くも空爆の問題が採り上げられ、空爆は禁止するべきだと言われました。当時はまだ飛行機がなかったので、飛行船などを使っての爆撃などが考えられました。しかし、第一次世界大戦で、空爆は非常に威力があるということが、軍人たちの間で明らかになりました。そこで空爆を主要な手段にしようということが言われるようになります。その空爆の思想をもっとも早く表したのがイタリア人のジュリオ・ドゥーエという人物で、彼は1921年に『空の支配』という本を書きました。そこでは、「空軍による攻撃というのは、戦略目標だけではなく敵の住民の戦意にも向けなければならない。住民の戦意を潰していくこと。これが重要なのだ。爆撃は正確さを期待できない。重要な目標は人口密集地にあるので、爆弾は大量に投下しなければならない。人口密集地に対する高性能爆弾、焼夷弾及びガス弾による爆撃は住民による暴動を引き起こし、政府に講和を強いるものになるだろう。適切な時に攻撃を集中することと、爆弾の量とが早期の勝利をもたらすだろう。空爆は安価で、戦争の費用を減らすだろう。」とドゥーエは言っています。つまり、空爆は戦争解決の有力な手段だ。その場合、一般住民が対象になるとドゥーエは言っています。この考え方はその後の軍人たちに大きな影響を与えます。しかし、やはり空襲というのは多くの犠牲者を出します。特に民間人の犠牲者を出すことがやはり問題になります。そこで、1923年に国際的な会議で、空戦に対する規則が作られました。これは正式に批准されたものではないが、一種の慣習国際法になります。ここでは、「まず一般住民に対する空爆は禁止すべきである。空襲は軍事的な目標に限るべきである。地上軍の作戦地域に対してどれだけの距離が離れているかということによって空爆を適法なものと認めるか、違法なものとするかが変わってくる。地上軍から離れたところに対する空爆は禁止しすべきである。」と言っています。これも、その後の軍人たちの空爆に対する考え方に一定の影響を与えます。結局、空襲に関しては、選択爆撃論―軍事目標主義か無差別爆撃か―が絶えず問題になってきます。ですから、重慶爆撃に関してもこの問題が当然出てきます。
第二次世界大戦時期の空爆
1937年4月26日、スペインのバスク地方のゲルニカに対してドイツ軍が有名なゲルニカ爆撃を行いました。これが第2次世界大戦の空爆のいわば出発点になります。その後、日中戦争で日本軍が中国爆撃を行います。さらに今度は1939年9月にヨーロッパで第2次世界大戦が始まると、ヨーロッパでも盛んに爆撃が行われました。まずドイツがポーランドのワルシャワに爆撃を行っています。その後、ドイツ軍が1940年の春に西方への大作戦を開始するときにやはり、ロッテルダム爆撃など爆撃を有効な手段として使います。これに対してイギリスが8月25日にベルリン爆撃を行い、それに対してドイツがロンドン爆撃を行います。このようにだんだんヨーロッパでも爆撃、空爆がエスカレートしていきます。特に戦争の後期になりますと、イギリスやアメリカ軍によるドイツへの有名な爆撃が展開されました。ハンブルグ爆撃、ドレスデン爆撃などが大変沢山の犠牲者を出した、悲惨な空爆として有名です。日本に対してはアメリカ軍は、1944年夏にマリアナ諸島、サイパンやグアムを占領し、1945年ここからB29で日本本土への全面的な爆撃を行うようになります。まず3月10日、正確に言えば3月9日から10日にかけて有名な東京大空襲が行われます。そのあと引き続いて東京以外の5つの都市、全部で6つの大都市に対する空襲が行われました。東京、川崎、横浜、名古屋、大阪、神戸です。その後、6月17日から地方への空襲が展開されていき、それが8月15日まで続きます。
私が1941年生まれですが、戦争が終わった年はまだ4歳なので、戦争の記憶は余りないのですが、空襲の記憶はかなり鮮明です。まず4月13日から14日だと思いますが、私の住んでいた駒込が空襲で焼かれました。その後宇都宮へ疎開し、その宇都宮で7月に空襲にあいました。幼いながらこの空襲の記憶が大変鮮明でして、そのことが、ずっと空襲の問題に取り組んでいる一つの理由になっています。
二 日中戦争のなかの重慶爆撃
日中戦争をいつから考えるか、大きく分けると二つの説があります。一つは1937年7月7日盧溝橋事件以降のいわゆる8年間の戦争で、中国でもしばしば8年の抗戦という言い方をします。これが一番オーソドックスな考え方だと思いますが、1931年9月の満州事変から日中戦争が始まっている見方もあります。この見方はいわゆる15年戦争という見方です。
満州事変時期の錦州爆撃
この15年戦争の考え方によると、すでに1931年10月、満州事変の時期に日本は東北と華北のちょうど境目にある錦州に対して、爆撃を行いました。ただ、たいした爆撃ではないですが、25キロの小型爆弾が75発落とされたというものでした。しかし第一次世界大戦以来の都市爆撃だと言うことで、非常に宣伝されました。
日中全面戦争の勃発から武漢陥落まで
日中全面戦争が始まると、日本軍はいよいよ大々的に爆撃を開始します。1937年7月末から、北平(当時は南京が首都でしたので北京は北平と言われていました。)や天津に対する日本軍の爆撃が行われます。8月に上海に戦火が飛び火しますと、上海にも激しい爆撃が行われます。中国側の空軍も対抗して爆撃を行いますが、圧倒的に日本側のほうが強かった。台湾と長崎の大村飛行場から爆撃が行われました。渡洋爆撃と当時の新聞で盛んに言われたそうです。
さらに日本軍は南京に対する爆撃も行いました。1937年8月から12月にかけて、南京大虐殺の事件は有名ですが、すでにその前から南京に対する日本軍の攻撃、それによる多くの住民の犠牲が始まっています。このことに関しては国際連盟が非難決議を行いました。多数の子女を含む無辜の人民を攻撃したということで非難されますが、日本側はあくまでも軍事目標への爆撃だと言っていたが、実態としてはやはりかなり無差別爆撃的な性格が強かったわけです。
南京が陥落しましたが、戦争は終わりません。中国側、国民政府側は重慶に、共産党は延安に本拠地を置き戦いを進めました。戦争は続きます。そして、1938年10月に日本軍は武漢を陥落させます。しかし、この段階で日本軍はこれ以上の大規模な陸上戦闘による攻撃はできなくなります。
対峙段階の始まりからアジア・太平洋戦争勃発まで
当時、中国に派遣されていた日本軍の数は100万とも90万とももう少し少なかったという人もいますが、とにかく大量の軍隊が中国に派遣されました。日本に残っている軍隊は近衛師団だけだったと言います。これ以上日本軍は陸上による大規模な攻撃ができなくなりました。そこで、いわゆる対峙段階、日中両軍がにらみ合う段階が始まります。
この時期に入ってくると、日本は中国に対する戦略を転換します。一つは国民政府を屈服させるための、政治謀略工作を行います。そして、より広大な占領地を確保することが重要となってきます。大体中国の3分の1から4分の1位の地域を占領したわけですから、占領地の確保は大問題です。陸上の攻撃としては小規模な攻勢が何度か行われますが、これはもう戦争を左右することにはなりません。
そこで、日本が行った軍事作戦として爆撃が登場してきます。政戦略爆撃と言って敵の軍政府の最高中枢を撃滅することによって、戦争を終わらせようと考えたわけです。この時期の日本軍の考え方で、無差別爆撃という考え方が明確になります。すでに、1936年に陸軍が作った『航空部隊用法』には、「政治・経済・産業を破壊し、その住民を空襲し、その敵国民に多大の恐怖をあたえ、その継戦思想を挫折すること」と解説されております。住民の戦争継続の戦意を挫折させるということを目標にして中国に対する都市爆撃を行ったのです。
空軍の主役になったのが、海軍航空隊です。陸軍は当時ソ連が陸軍にとって主要な敵だったものですから、航空兵力の大半は対ソ戦に留保されてしまっていました。したがって、中国に対する都市爆撃の主役になったのが、海軍航空隊、九六式陸上攻撃機、中攻と言われるものです。爆弾として用いられたのは通常爆弾以外に焼夷弾が大量に用いられました。特に重慶は木材でできている家が多いので、焼夷弾が非常に有効だと考えられていたのです。
日本軍が武漢を占領した後、武漢の中の一つの街漢口の周辺に航空基地が建設されました。武漢から重慶までは約780キロです。九六式陸上攻撃機・中攻の航続距離は5000キロメートル。中攻だったらゆっくり行って帰ってこられる。陸軍の爆撃機の航続距離はあまり長くはなかったそうで、そういう理由からも海軍航空隊が非常に重要な意味を持ったのです。だが、1938年の10月から1939年1月の最も初期に行われた爆撃については、陸軍の重爆撃部隊が実行したようです。ただ、この時期重慶は霧で覆われていて、あまり大きな成果は上がりませんでした。
重慶爆撃が海軍航空隊によって本格的に行われるのは、霧が晴れた1939年5月からです。重慶の人々にとってはようやく霧が晴れて、明るい季節が始まる時期に空襲が始まるわけです。この1939年5月から10月にかけての空襲は、攻撃日数にして23日、回数にして27回と言われています。とりわけ有名なのは5月3日と4日に行われた空襲です。これは最初の中国の都市に対する市街地集中爆撃です。中攻の飛行機、爆撃機が5月3日には45機、4日には27機が重慶を襲います。重慶の中心部が炎上壊滅します。死者は約4000人だったと言われています。先ほどお話しましたゲルニカの死者は、当時のバスク政府が出している公式の数字が1,654人と言われていますから、それをはるかに上回る大規模な空襲でありました。
重慶の中心部に五四路という路があり、五四運動を記念した路の名前かと思いましたが、実は5月4日の爆撃を記憶にとどめるために五四路という名前がついたと、重慶の人にとっては忘れられない空襲だったわけです。
その翌年1940年になると、日本軍は一〇一号作戦という大規模な爆撃を行います。1940年は、日中戦争の中で大変重要な年だと思っています。何故かと言えば1939年9月1日に第二次世界大戦が始まります。先ほど言いましたように翌年の春にはドイツ軍が征欧作戦を開始し大きな成果を上げます。フランスはドイツ軍によって、大半が占領されてしまう状況が生れました。日本軍はヨーロッパで起こった戦争のドイツ軍の華々しい戦果に対して対応しなければいけない。これを機会に日本の戦略をさらに拡大しようと考えます。その場合に、日本軍にとって大きな障害になるのは、中国との戦争が片付いていないということでした。なんとかして、中国との戦争を早く片付けたいということを軍の指導者たち、あるいは政府の指導者たちは考えるわけです。たとえば陸軍の場合は、1940年5月18日に陸軍省と参謀本部のトップが会議を開いて、全力を尽くして速やかに重慶政権の屈服を目標とする、その時期は遅くても昭和15年末つまり1940年末とする、そこでも重慶政権が屈服しない場合は、日中戦争については長期解決方策に転換するという決定をしました。7月に開かれた大本営政府連絡会議では、支那事変つまり日中戦争の解決を促進するとともに、南方問題の解決を図る、つまり日本は東南アジアに向かって進んでいこうとと考え、それからドイツ・イタリアとの政治的結束強化を考えました。そのように、日本の政策が大きく1940年に転換するわけです。そこで、日本は中国を屈服させるために、軍事面では宜昌作戦をしました。武漢をずっと遡っていくと宜昌いう街に出ます。ここから先は今三峡ダムになっていますけど、長江三峡という風光明媚だけれども川幅が狭くて、大きな船では遡れない、大変険しい地域です。この宜昌を占領して、宜昌を重慶爆撃の新しい基地にしようとしました。
それから、もう一つ、重慶政権を屈服させるために、いわゆる援蒋ルートを遮断しようと考えました。当時国民政府に対して、外国からいわゆる援蒋ルート、蒋介石を援助するというルートが作られていましたが、一つはベトナムから雲南鉄道を北上し昆明まで行く仏印ルートを遮断する。もう一つがビルマ現在のミャンマーから陸上のトラック輸送路が作られたビルマルートを遮断することを大きな目標としました。フランス側はドイツに屈服してますから、6月に仏印ルートの閉鎖を承認します。一方ビルマルートもイギリスが強い圧力を受けて、7月から3ヶ月間遮断します。これが国民政府にとっては非常に脅威になりました。そういうことをしながら和平工作を進めるわけです。一つは桐工作、もう一つが銭永銘工作と言います。こういったことをやって国民政府をなんとか屈服させようとしたわけです。
重慶爆撃に戻りますと、重慶爆撃においては90日間、攻撃日数にして32日の大変大規模な爆撃が行われました。この時の海軍の重慶爆撃の指導者が井上成美中将で、この人はやがて対米英戦に反対した反戦大将といわれました。大変頭脳明晰な軍人で、重慶爆撃に対しては彼が最高責任者です。もう一人、井上の下で海軍航空部隊の一つを指揮した大西瀧治郎大佐は特攻を考案したことで有名であります。このような海軍の精鋭たちが、この一〇一号作戦を指揮しました。
一〇一作戦は、重慶をA、B、C、Dと地区を決めて徹底的な絨毯爆撃を行うという手法をとりました。まさにこれは無差別爆撃、絨毯爆撃だったわけです。このように1940年中に日中戦争の解決を図ろうとしたのですが、うまくいかず、重慶爆撃でも国民政府を屈服させることはできませんでしたし、ビルマルートは10月に再び回復します。和平工作は両方ともうまくいきませんでした。結局日本は9月になって、まず9月23日に北部仏印進駐、つまりベトナムの北部に軍隊を送り、いよいよ南方作戦を展開し始めます。それから9月27日には日独伊三国同盟を調印しドイツ・イタリアと共に世界の覇者となる道を選びました。それから11月30日には南京に作られていた汪兆銘政権を承認する。こうして日本は日中戦争の解決の道を失い、対米英戦争の方向へと走っていきます。
一〇一号作戦で忘れてならない問題として、有名なゼロ戦が登場したのがこの時期です。零式艦上戦闘機、通称ゼロ戦が8月から活動します。これによって日本軍は重慶に対する制空権を完全に手にしました。そのようなことも1940年にありました。
1941年は一〇二号作戦といいます。この作戦が何故行われたかというと、まだまだはっきりとしないのですが、ちょうどこの時期1941年の春くらいから日本とアメリカとの最後の交渉が始まっています。恐らく日本としては日米交渉を優位に進めるために重慶爆撃を考えたのではないかと思います。この一〇二号作戦においては、6月5日有名な防空洞の惨事が起こりました。それから重慶のすぐ側の長江に停泊していたアメリカ軍砲艦ツツイラに日本軍が爆撃をします。本当に間近にまで行って、これが日米開戦の導火線にもなったとも言われています。
しかし、1941年で日本の重慶爆撃は基本的には終わります。何故かといえば日本の航空機の主力部隊がアメリカ・イギリスとの戦争にまわされてしまったからです。もう重慶爆撃というのは問題にはならなかったわけです。それから中国側でもアメリカの軍人たちが作ったフライングタイガーズといわれる義勇航空隊が登場してきまして、これが、日本軍の航空部隊と互角に戦うようになって来ます。重慶爆撃は大体1941年で終わります。つまり、1939年の5月から1941年までが主たる重慶爆撃の期間。その後散発的に空襲はありますけれども、それは大きなものではありません。あとは重慶だけではなくて中国に対して各地で爆撃が行われました。四川省の成都や楽山、自貢などで爆撃がありました。
雲南省の空襲についても少し紹介します。雲南省に保山というところがあります。保山というのはビルマのずっと西のほうの街ですが、ここで1942年5月4日に日本軍が空襲を行いました。ちょうどビルマの方面からの難民たちと保山の農民たちと、ちょうど学生節だったので小中学校の生徒学生が10万人集まっていました。そこに、小さな街ですが、日本の爆撃機が空襲を行って死者8800人という死者の数では最大の犠牲者を出す空襲が行われました。
三.重慶の防空体制
実は重慶爆撃については、従来中国ではあまり重視されてきませんでした。何故かといえば重慶は国民政府の所在地です。重慶爆撃についての抵抗というのは、ある意味で国民政府の抵抗であったわけです。しかし、解放後の中国では、共産党がいかに日中戦争、抗日戦争で大きな役割を果たしたということが中心的に言われ、国民政府がろくに日本に抵抗しなかったと言われていました。そのため重慶空襲に関する中国の研究と言うのは極めて不十分でした。
80年代に前田哲男さんというジャーナリストが中国を訪問、重慶爆撃について取材を行い、朝日ジャーナルに発表しました。それが『戦略爆撃の思想』という本になって、80年代末に出版され、中国でも翻訳されました。この本が重慶爆撃の研究のひとつの出発点になりました。
はじめて1988年に重慶を訪れた時に、私は重慶の学者たちと会合を持ちました。そこで、重慶爆撃の研究がようやく始まっているという話を聞きました。しかしあまり予算がなくて、ろくに研究もできないのだということを言われていました。実際にその2~3年後に初めて重慶爆撃についての本が出たのですけれども、薄い本でした。
そのような状態が変わっていくのが1990年代です。それ以降重慶では重慶爆撃の研究が非常に進みました。国民政府が日中戦争において大きい役割を果たしたということが正当に認められるようになり、重慶爆撃についても研究が進んだわけです。今では重慶では重慶爆撃というのは、研究の中心テーマになっています。その中で、いかに重慶が頑張ったということが、だんだん明らかになってきました。重慶の防空体制は初期の段階では極めて弱体でした。重慶の政府当局も防空当局も重慶の市民たちの防空意識があまり強くはありませんでした。5月3日の空襲では飛んできた日本軍の飛行機を、外で見物するという状況がありました。
防空体制の問題点
中国の防空体制に関しては、積極防空と消極防空と二つの言い方があります。積極防空とは、航空部隊や高射砲部隊が日本の航空部隊と戦うという方法です。ただし日中戦争が始まると、中国の航空部隊は壊滅的な打撃を受けます。高射砲もあまりたいしたことはありません。したがって、中国における防空は、消極防空つまり被害をいかに最小限に食い止めるか、犠牲をいかに少なくするかが主になります。
重慶防空司令部が1937年9月1日に生れます。重慶の周辺32県に防空監視区域が作られ、そこに監視隊や監視哨がつくられて、長江の下流から日本軍が飛んでくるのを見張るということが行われました。空襲により多くの犠牲が出ることから、救済活動が組織として作られました。また、重慶が岩山ですので、岩の下を掘ると大変強固な坊空洞ができます。1938年7月から朝天門から通遠門まで東から西へ、南の南紀門から北の臨江門まで大規模な防空隧道をつくる計画が始まります。重慶は戦争が始まるとどんどん人口が増え、その人口を疎開させるという取り組みも始めました。
1939年5月3日までは防空体制はありましたが、それほど機能はしていませんでした。しかし4000人を越す5月3日、4日の空襲は、国民政府の当局や市民にものすごい衝撃を与えました。
蒋介石は(夫人の宋美齢を伴い)5月4日に重慶を見回って、空襲の被害を自ら視察し、防空体制を強化することを主張しました。その結果、まず積極防空が強化されました。高射砲部隊、航空部隊が整備され拡充されました。外国から高射砲や飛行機を輸入も行われました。これに関しては、ゼロ戦が登場するまではかなりの成果が上がったと言われています。さらに、消極防空に関しては、防空機構を改組しました。蒋介石直属の軍人が、重慶で最高防空責任者になります。そして、防空大隊や工程処が作られ、坊空洞の建設や高射砲陣地の建設にあたりました。疎開に対する取り組みも強化されます。居住証が発行されて、これがないものは強制的に疎開させられることになります。大規模な隧道だけではなく個人の坊空洞を建設するということが言われて、市の坊空洞拡大建築運動などと呼ばれる運動が進められて、坊空洞、防空壕に関してはかなりの発展がありました。
被害者の救済
被害者の救済に関しては、重慶市空襲服務救済連合弁事処が作られて活発な活動を行います。爆撃で亡くなった人に対する弔慰金、あるいは見舞金が支給されたり、死体の埋葬が行われたりします。
医療活動に関しても医療看護委員会が作られ、14の重症病院が作られて負傷者を救護していきます。多数の子供たちが親を失います。そういう被災児童の収容教育施設ができます。難民たちの救済のための医療活動、小口貸付、安い値段で物を食べさせる食堂などもできます。消防隊も活発に活動します。ただし、当時の消防隊はたいした設備がなく、人力による消防ですが、かなりの威力を発揮したと言われています。とくに重要な位置を占めたのが、重慶市防護団という組織で、17の区団とその下に416の分団が作られ、隊員数は2万人を数えます。隊員の大部分は住民や商店の店員たち。このようにして、活発な防空活動が行われたのです。
ただ、防空体制には色々と問題があって、大隧道窒息事件、急いで作られた較場口の大隧道の入口あたりに、空襲避難のため沢山の人々が押し寄せたが、扉が閉められ、約1000人の人がここで窒息死する大惨事になりました。この事件の責任はもちろん日本軍の空襲にあるわけですが、国民政府の隧道の管理体制がまだまだずさんであったし、また隧道の建築に多大な汚職があり、それが手抜き工事になったとも言われております。
重慶の民衆は空襲の中で、非常に厳しい状態にありました。戦争のさなかにインレーションがものすごい勢いで深刻になるのですが、その中で物不足が続き、停電や断水が続き、コレラや赤痢などの疫病が流行りました。
もう一つ重慶の空襲に影を落としたのは、深刻化していく国民党と共産党の関係の悪化です。ご存知のように1941年の1月には新四軍事件と呼ばれる、国民党と共産党の大規模な衝突が起こり、共産党側つまり新四軍が非常に大きな犠牲を蒙る事件が起こります。重慶の防空と言うのは国境関係が大変悪化していると言う状況の中で進められていました。先ほど防護団のお話をしましたけれども、防護団は一面では共産党の監視に利用されていました。この時期に重慶に関しては、茅盾が有名な小説『腐蝕』の中で重慶の非常に厳しい政治状況、その中で巻き込まれて苦しむ若い女性スパイの苦悩を描いていますが、そういった動きが一方にはありました。
さて、重慶の市民は空襲に対して非常に頑張りました。しかし、民衆が空襲に対して決して平気だったわけではありません。空襲はものすごい恐怖を市民達に与えます。先ほど言いましたように重慶の夏はものすごく暑い、35~36℃以上の暑い中でずっと防空壕の中に入っていたのはどんなにきつかったかは想像絶します。最近、当時の民衆に対する聞き取りが行われて、彼等がどんなに空襲で苦しんだかがだんだん明らかになってきました。不眠症になったり、ストレスがたまったり、あるいは空襲警報が鳴ると決まってトイレに行くなどのこともありましたし、とりわけ子供達はこの空襲によってものすごい精神的な打撃を受けたことも分かってきました。しかし、そういった状況の中で、重慶の民衆は非常に頑張ったわけです。
外国人の証言
次に、二人の外国人エドガー・スノーと王アンナの証言を紹介します。まず、エドガー・スノーが日中戦争時期に書かれた『アジアの戦争』の中に、こんなことが書いてあります。
「数百の新しい避難所と防空壕が岩の間に穿たれ、活発な救助隊、及び清掃隊が組織された。さらに防空路がもっとも人口が稠密な部分に作られ、政府官庁や防空司令部は郊外に移され、広範な地域に分散配置されたのだった。私が長い北の旅から帰ってみると、もはや重慶は世界で恐らくもっとも安全な戦時首都と目されるまでに変わった。」
また、エドガー・スノーは、「日本の攻撃がやがてブーメランのように日本に帰ってくるだろう。」とも言っております。
王アンナは共産党員の王炳南という人と結婚したドイツ人女性で、ちょうどこの時期重慶にいました。彼女が書いた本が翻訳され、『革命中国に嫁いで』というタイトルで出版されています。この王アンナさんはこんなことを書いています。
「重慶では人々はまるで、フットボールチームの開幕でも語るような調子で、爆弾の季節の始まりを語り合っています。4月の終わりになって、霧が晴れて、晴天の日がやっていくると、早速日本軍の飛行機が姿を現した。冬の間に精魂を傾けて復旧したり、やっとのことで補修を済ませておいたものが、再び爆弾によって廃墟と化してしまうのであった。10月に入って重慶の上空が雲と霧とで覆われるようになると、市内ではさながら蟻の群れのように忙しげな動きが始った。あちらでもこちらでも、壊れた家屋の修理が始まったり、廃墟の跡に新しい家が建てられていった。しかも、完全に破壊された市の中心部の一部までも復旧したのであった。」
一方でものすごい恐怖を空襲は重慶の市民にもたらしましたけれども、重慶は抵抗を続けたわけですね。ですから、重慶の人々の抵抗の精神は、重慶は臨時の首都、代都精神と言う言葉で重慶の人々の抵抗の精神が語り継がれるわけです。
重慶爆撃による被害
最後に重慶の空襲の被害がどれくらいあったのか。重慶防空司令部という組織があって、防空司令部が空襲の被害に対し記録を残し続けました。この資料については、かなり信頼できる資料です。この点が南京事件と大きな違いです。南京事件の場合はこういった被害者をきちんと記録するような組織はなく、そのために南京事件の被害者に関して、中国側は30万と言い、日本側は20数万、もっと少なく見積もる人は4万あるいは数千と言い、バラバラな数字が出てきてしまうわけですけれども、重慶爆撃に関しては一定の信頼できる数字があるわけです。そこで、重慶爆撃の被害者はどれくらいかということですが、第一に時期をどのようにとるかによって異なります。1939年から1941年の3年間に中心的に爆撃が行われた時期に限るのか、あるいはもっと前の1938年から最後に空襲が行われた1943年までにするかで若干の違いが出てきます。やはり全期間にするのが適当だろうと私は思います。第二に地域ですが、当時の重慶市だけに限るのか、当時の重慶市の中心部だけにするのか、周辺部を加えるのか、さらに現在の重慶直轄地の非常に広大な地域の被害も全部加えるかによって変わってきます。重慶の研究者の中には、この現在の重慶直轄地の範囲まで被害者数を加えるべきだと言います。なぜならば、重慶爆撃の途中で、日本軍はその都市を空襲したし、あるいは重慶を空襲した帰りに空襲したから、そういった地域を空襲したからという考え方もあります。当時の重慶市域、巴県のという長江の南の地域、長江の北の江北と言う地域と嘉陵江をずっとさかのぼった北碚地域があります。これは当時の重慶にとって非常に重要な意味を持った付属都市と言っていいところですが、この3つの地域を加えて重慶の被害者の数とするのが一番いいのではと私は思います。この3つの地域を加えた重慶の被害者の数は、死者10,808人、負傷者11,800人、倒壊家屋14,400棟ということになります。ちなみに、現在の重慶直轄地を範囲とした場合の被害者数は、中国の研究者が出した数字では、死者23,659人、負傷者31,072人となります。中国全体でと言いますと、死者33万6000人、負傷者42万6000人となります。
重慶大爆撃訴訟
今、重慶大爆撃訴訟が行われています。東京大空襲訴訟も行われています。ですから、東京地裁では、東京大空襲と重慶大爆撃の訴訟-これは重慶だけではなく、楽山や自貢の被害者も含んでいます-の両方が行われています。そして、この両方の空襲の被害者達の間で連帯が生れていることも大事なことです。ただ、この裁判は容易ではありません。なぜならば日本側は、日本の裁判所がこれに対して、大変否定的な立場をとっています。一つが、「国家無答責」という論理で、当時は大日本帝国だったわけですが、この大日本帝国の憲法の下では国家の権力的な作用については民法の適用は排除される。民法の適用が排除され、損害賠償の責任は認められないという論理です。それからもう一つが1972年の「日中共同声明」において、中国側は日中戦争における賠償を放棄したのだから、個人の請求権も放棄されるという考え方です。これに対して、中国側では国家の賠償責任は放棄しても、個人の請求権は残っていると言うことで、訴訟をしています。しかし、この司法の論理を打ち破るのは容易なことではありません。これらかどうなっていくか、仮に裁判では認められなくても、政府が責任を負うという形が、最近戦争中の日本側の企業が行った強制連行などにおいて、そういった判決がでているので、それが重慶大爆撃訴訟に適用されるかが、大きく注目されるところです。
という訳で、重慶空襲は、今日的な問題であり、研究が進んでいます。裁判の支援はもっと活発に行われなければなりません。是非、今日のお話を聞かれた皆さんが関心を持っていただいて裁判の支援をしていただければ嬉しく思います(2010年1月30日 日中学院にて)。