桂林と少数民族

金団長率いる日中学院校友会の中国旅行は今年で3回目を迎える。今回の目的は、漓江を船で下り、桂林の水墨画さながらの風景を味わうことと少数民族トン族の人々との交流である。

第1日目(3月26日 火曜日)

初日は移動日。羽田から広州・白雲飛行場へ。昨年降り立った南京空港が巨大過ぎたためか、以前は大きいと思った白雲空港がさほどには感じられない。入国手続きのための指紋認証機は、うまく作動せず、結局いつも通りの手続きで無事入国完了。桂林に向かう専用バスに揺られて、文字通りしっかり揺られて、広州南駅に到着。此処から高速鉄道で桂林に行く。蒸し暑い。3時間弱。汽車旅も今回の魅力の一つだ。桂林には夜着いた。1日が長い。ホテル内にあるレストランで夕食を頂く。移動が無いことの安堵感に加え、料理の美味なこと。全部で17皿。特に冬虫夏草入りのスープは疲れた体には最適であった。

第2日目(3月27日 水曜日)

『桂林漓江大瀑布飯店』に連泊する。大瀑布という名前だが、滝はいったい何処あるのかしら。天気は小雨で少し肌寒い。竹江から乗船し陽朔までの4時間の旅だ。船はゆったり進み、小雨に煙る川の行く手には、カルスト地形独特の山々が連なり、水墨画で見たとおりの桂林の風景があった。甲板上でも風は穏やかで船内アナウンスで説明を聞く一方で、要所要所をガイドの莫さんが日本語で解説してくれた。

莫さんは漢族で江西省で二日間お世話になる人だ。ガイドの仕事をする傍ら、調理師免許を持ち、コックとしても働いているという。どうやら日本人観光客の激減が原因らしい。

カルスト地形の珍しい峰々が両脇に流れていく。特に「九馬画面」と言われる山は9頭の馬が見えるというので、目を凝らしてしっかり数えたが、結局5頭しか見つからなかった。20元札の裏面に印刷されている場所と言われている所も通過した。この絵はどうやら船からでは無く、別の角度から撮ったようである。

昼食を船内で頂き、水墨画の世界を存分に鑑賞し、陽朔に上陸する。船着き場には物売りがいて賑やかだ。

別名『洋人街』とも言われる西街は中国語のテキストにも出てきた場所で、山と山の間にできた小さな町だ。

西洋人が多いことで知られていたので、さぞや洋風なのだろうと密かに楽しみにしていたが、それは有名になる以前の事らしく、今は地元の人々の営む民芸品店や雑貨、食品等の土産物店が軒を連ねていた。土産物店を覗きながら、小雨の中、商店街を逍遥する。45分のフリータイムだ。午後専用バスで桂林に戻る。途中「高田卿」と呼ばれる田園風景の広がる地帯を行く。TV番組の「街道を行く」を地で行く気分になる。田園地帯のあちこちにあの独特な形をした山がある。桂林=水墨画=水辺の風景という固定観念に捕らわれていた自分が恥ずかしかった。       

桂林の街には夕刻に入った。ちょうど退社時間で、電気自転車の洪水だ。時速40キロも出るという。自転車なのだから免許もいらない。だが、日本人の目には、どうしても電動バイクとしか映らない。雨脚が強く霧が濃くなったので、オプションのナイトクルーズは中止になったが、ホテルの滝のショーは見ことができた。これは私達が宿泊しているホテルの壁を大量の水が音楽に乗って流れる仕掛けで、10分間ひたすら水が流れ落ちる。「ああ、だから・・・」ホテル名に納得した瞬間であった。

第3日目(3月28日 木曜日)

愈々トン族の村に行く日だ。その前に、訾洲(ZIZHOU/シシュウ)公園から象が漓江に鼻を入れて水を飲んでいるように見えるという象鼻山を遠望する。時々濃霧が発生するので、中々象の姿を認識できない。じっと目を凝らす。L同学が、心眼で見るのだとおっしゃったのが印象的であった。次に穿山鍾乳洞を見学。思った以上に足元が良く、内部も広い所が多い上に、鍾乳石がライトアップされているので安心して眺めていられる。特に石灰岩が棚田のようになって天井に映っている光景には暫し釘付けになった。 

昼食をとり、貴州省へ向かうために桂林西駅に行く。高速鉄道に乗るのだ。胸が高鳴る。実は今まで、「汽車に乗ろうよ。」と言ってきたが、その度に、荷物を持っての移動が大変、乗車時間が短いから乗り遅れる可能性もある等で、「校友会の旅行に鉄道移動はご法度か・・」と思っていた為、今回の実現は本当に嬉しい。50分後従江の駅に着く。駅前広場にはトン族の人たちが、『熱烈歓迎日中学院校友会一行』の横断幕を持って待ち受け、歌を歌って出迎えてくれた。今までこのような歓迎を受けたことがなかったので、嬉しいような照れくさいような何とも言えない気持ちになった。駅の前方には不思議な建築群があった。トーテムポールを思わせるオブジェは、宇宙人が作ったのではないかと思うほど斬新なデザインだった。 

専用バスに乗り、この地方で最大と言われるトン族の村「肇興(チョウコウ・ZHAOXING)侗寨に入る。村全体が日本風に言えば、歴史保存地区、或いはテーマパークのようで、入り口でパスポートを提示し入村料を支払う。更に車で5分。眼前に現れた肇興の村は、夕陽を浴びて世俗から切り離された桃源郷のようだった。

ガイドの彭さんの案内で、村にある鼓楼を中心に主だった場所を見学する。鼓楼は本来、村に一つだそうだが、此処には仁、義、礼、智、信と名付けられ5つもあった。

楼の層の数によってその地区の豊かさがわかるそうだ。村に入って以来ずっと、カーン、カーンという何かを打ち付けているような音が響いていた。それは木槌の音で、藍染の布に、豚の血と植物の汁を混ぜたものを塗り、木槌で何度も繰り返し叩き、光沢のある布を作っていたのだった。民族衣装に使われるこの布は、「亮布」というのだそうだ。

ホテルは外廊下があり、窓は半蔀。室内はコンパトに出来ていて、使い勝手がよく、Wi-Fiも入っていた。できて間もないらしく微かに木の香りがした。トン族の村は全て木造である。釘一本使わずに作った橋もあると言う。高い建築技術を持った民族なのである。

部屋を一歩出れば、山あいの地に立つトン族の家々が目に入る。夕餉の煙が立ち上り、穏やかで静かな時間が流れていく。

夕食にトン族料理を頂く。品数が豊富で、どれもとても美味しい。名物の熟れ寿司は日本の鮒寿司よりずっと食べ易かったが、我々を気遣ってか、高価なのか、多くはなかった。食後の民族ショウーは自由参加。

第4日目(3月29日 金曜日)

朝食はフロントのあるロビーで頂く。ゆで卵、米粉の麺、漬物、搗き立てのきな粉餅。卵は放し飼いの鶏の産みたてであろう。どれも物凄く美味しい。食べ物に我儘な私だが、今回は頗る上機嫌である。今日は棚田を見に堂安村に行く。その前に、トン族文化展示中心を見学。民族衣装や銀で出来た装飾品の展示を見る。施設内には藍染の工房もあり、この道何十年と思われるお婆さんが、木槌で布を叩いていた。私たちも体験して良いというので挑戦した。何度か叩くうちに調子が出てきて「好!好!」と言われて、満更でもないと思いきや、お婆さんが叩くと「カーン・カーン」と澄んだ音が響き渡った。音が根本的に違っていた。

棚田のある堂安村にはタクシーに分乗していく。大型バスは入れないのだ。ガイドの彭さんと研修生で貴州民族大学日本語科の学生で、回族の馬さんが同行する。馬さんは緊張しているのか、元来大人しい性格なのか、余り話さない。彭さんは旅行会社の部長という地位が示すように、有能なキャリアウーマンというタイプの人であった。

平均寿命が73歳のこの村で、83歳で亡くなったという人の葬儀が営まれていた。亡き人の長寿にあやかろうとしたのだろうか、棺を安置した周りに、村中総出かと思われるほど沢山の老若男女が集まって食事をしていた。

そこを通り過ぎ、棚田のある場所に向かう。周囲の山々は新緑であったが、田植えには早いようだった。棚田をながめながら、のんびり歩く。空は青く澄み、空気は新鮮で、長閑であった。旅人として風景を愛でる分にはいいが、実際にこの田を耕し、苗を植え、米を収穫する作業は如何に大変なことか。そんなことを考えて歩いているとレストランに到着。

個人経営の食堂である。名物の「酸魚湯」を中心に料理を味わっていると、先ほどの葬儀に参列したこの店の主人のお父さんが帰ってきた。お酒が入っている上、初めて見る日本人観光客。店の老主人は上機嫌で、葬儀など無かったかのように、あれこれ話しかけてくれ、私たちは楽しく、美味しい時間を過ごした。肇興村に戻り、夕方からホテルのロビーで、今回の旅の大きな目的であるトン族の人々との交流会を行った。男女十数名からなる合唱団は民族の歌を次々と披露してくれた。音域が広く、声量の有るその歌声は圧巻だった。団員の一人の女性はスイスに遠征したことが有るそうで、若い頃の倍賞千恵子に似ている気がした。トン族の人は歌が上手くないと結婚できないと言う。トン族でなくて良かったとしみじみ思った。交流会なので、日中学院としても歌を披露しなければならない。夢にも思っていなかった事で、我々は大いに慌てたが、J同学の提案で、「幸せなら手を叩こう」を振り付けを交えて歌い、こちらの気持ちも伝わったようだ。合唱団の人々は綺麗な普通話を話すので、校友会メンバーも民族衣装や日常の生活のことなど、あれこれこと尋ねて、楽しく交流し、充実した忘れがたい会になった。

第5日目(3月30日 土曜日)

ホテルを後に、一路黄崗村を目指す。山道をぐるぐる頂上に向かってバスは走っていく。私の体は正直で、防衛本能が働くのか直ぐに睡魔に襲われる。時々意識が戻ると風景は一変しており、村は天空に有るのかしらと思うほど登りつめて漸く到着した。村の入口には鳥居のような門が有り、トン族の人々が数人集まっていたが、我々が予定の時間より早く着いたので、歓迎の準備ができていなかったらしい。た。なんとスマホを取り出して、まだ来ていないメンバーに連絡を取っているのだ。近年、中国のITの発達には目を見張るものが有るが、ここでもハットさせられた。トン族の歓迎の儀式―歌を歌い、客人に盃に入れたお酒を三回に分けて飲ませる。迎えられる側は手を使わずに飲むーを経て、村の中へ。集会場にもなっているのだろう村で一番古い鼓楼の下で、今年27歳だという村長の挨拶を受ける。ここでも歌の歓迎を受け、我々も共に輪になって踊り、又、「幸せなら手を叩こう」を歌い、何とか無事に終わる筈が、アンコールが起きどうしようかとあれこれ逡巡したが、さすがは日中学院校友会。Y同学の閃きで「ふるさと」を歌い、友好を保つことができた。これからは歌って踊れる校友会を目指さねば・・

黄崗村は肇興味村より更に素朴なところでほぼ自給自足。

村長曰く、起きたいときに起きて、疲れたら休むという生活だそうだ。そのためか、若者は都市に出てもなじめず、村に帰ってきてしまうそうだ。中国政府が少数民族の保護に力を入れている為、義務教育と医療費は保証されていると言う。確かに村で一番立派な建物が小学校であった。この村では建物は全て木造でなければならない決まりなので、レンガ造りの村長の事務所は取り壊さなくてはならないそうで、村長は仕事が有るからと途中で帰って行った。代わりに20歳の副村長が残る部分を案内してくれた。若い人たちが活躍している村であった。

バスは来た時とは別の道を走り芭扒村を遠望する。昼食は建築中の店舗が並ぶ一角にあるレストランで、名物の「養生板栗鶏鍋」を中心に料理を味わう。辛い料理もあるが、癖になりそうな辛さで美味しい。添乗員さんの気配りか、今回の旅は実に地元の料理が美味しかった。トン族の村に別れを告げて、従江駅へ。夢から覚めたような気分だ。

ここで、ガイドの彭さんと馬さんは貴陽に、私たちは広州へと向かうので、駅でお別れをした。広州まで4時間の鉄道の旅だ。車窓は貴州省から江西省へ入るとカルスト地形に変わり、更に南下して夜の広州に入った。湿度が急に高くなった。この日は旅行の最後の晩餐会となるので、いつものことだが、高級なレストランでの食事が待っていた。広州名店の「泮渓酒家」。飲茶と子豚の丸焼きで旅の終わりを締めくくった。

第6日目(3月31日 月曜日)

宿泊した東方賓館は壮麗なホテルであった。出発までの自由時間は各自で買い物等市内を散策。白雲空港で、搭乗予定の飛行機の到着は遅れたが、追い風で到着時間が早まり無事すんなり帰国できた。

今回の旅の成果は桂林の風景もさることながら、なんと言ってもトン族の人々との出会いであり交流であった。民族衣装に直接触れ、声量豊かな歌声を聞くことができた。中国語を学んできたお陰で、拙いながらも言葉を交わすことができた。思うに、中国がこれから変化し発展していく中で、彼らの生活はどう変わっていくのだろう。現代化を取り入れながらも、その波に飲まれることなく、民族の伝統文化を守り、いつまでもあの歌声が続くことを、「亮布」を打つ音が各戸で響き続けることを願わずにはいられない。何年か後に又彼の地を訪れたいと切に思う。

今回も旅行に際して、色々な方々のお世話になった。改めて、参加して下さった校友会の方々、添乗員さんを初めとする旅行者の方に御礼申し上げます。ありがとうございました。