校友会主催 日中国交正常化50周年記念講演会

撫順の奇蹟

―親子二代にわたる元戦犯との交流を通して—
講師:金勝光氏

昨年(2022年)12月17日に金勝光さんの講演会が開催されました。1987年に本学の日本語科に留学をされ日本語を学び、大学院でAIの研究をされました。現在はIT会社の代表取締役として国際舞台で活躍し、校友会の理事もされています。父親は撫順戦犯管理所の所長を務めた方で、日本人戦犯との関わりの中で激動の中国現代史を体験された数少ない方です。この管理所の教育を通して、日本人戦犯の「認罪」と中国人職員の「憎悪」の克服をしたということで「撫順の奇蹟」といわれています。


 金勝光と申します。お忙しい中、お時間をいただきましてありがとうございます。今日は前半と後半を分けてお話ししたいと思います。前半は「撫順戦犯管理所と日本人戦犯の更生教育」を中心に、父がどのように元戦犯の人たちに教育を行なったかをお話ししたい
と思います。後半は私が来日してからのことですが、そのときはすでに元戦犯の方たちは中国帰還者連絡会(略称中帰連)という組織で活動していましたが、彼らとの二世代にわたる交流について話させていただきたいと思います。

【父と映画『ラストエンペラー』】
 まず撫順戦犯管理所はどのようなところか、父とどのような関係にあるのか、映像を見ていただくとわかりやすいと思いますので、こちらの映像をご覧ください。みなさんは映画『ラストエンペラー』をご存じだと思いますが、その中の清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀は、「満州国皇帝」になったのですが、日本の降伏後、捕虜となりソ連に抑留されました。この映画のシーンは1950年にソ連から引き渡され、撫順戦犯管理所に収監されるのですが、「満州国」官吏、日本人戦犯と黒龍江省の綏芬河から撫順北駅に着いたところで、史実と若干違いますが、これは溥儀が中国側に引き渡されたシーンです。
 こちらは当時の戦犯管理所の所長で溥儀と直接お話しできた方ですが、父はその時は教育係を担当し、その後教育副課長、教育課長となり、1964年に撫順戦犯管理所の所長になりました。
 この映画の監督ベルトルッチは北京の紫禁城で撮影するときに、父と2週間ぐらいお話ししました。特に管理所における溥儀のことや釈放後の北京での生活について、父から聞きました。この『ラストエンペラー』の台本の一部は、父から聞いた話をもとに作ったと思われます。そして、この監督は映画の中に父に出ていただければ、もっと面白いのではないかと思われたようですが、父は一般人なので映画に出るのはちょっと恥ずかしい気持ちがありました。父が家に帰りその話を聞いた我々家族は、ぜひ出てほしいと言いました(笑)。実は映画の中で「愛新覚羅溥儀」とひとこと言っているシーンと溥儀を釈放し、釈放書を渡すシーンは実際の父です。溥儀は1959年釈放されました。

【父の生い立ちと撫順戦犯管理所に勤務するまで】
 ここから前半のお話をさせていただきたいと思います。「撫順戦犯管理所と日本人戦犯の更生教育」についてですが、父は撫順戦犯管理所の設立から1980年までここで仕事をしてきました。出身は現在の韓国慶尚北道(キョンサンプッド)ですが、1926年に生まれました。当時の父の家族は(私から見て)祖父と祖母は農業をやっており、田んぼを所有し水田でお米を作り、毎年豊作で家族は自給自足の生活ができました。余裕があれば、お米を売って1年間は十分に生活が維持できる、まあまあいい暮らしをしていました。ただ、当時の朝鮮半島は1910年から1945までは日本の植民地下にあり、朝鮮総督府によって当時所有していた土地は「不動産登記令」が出され、登記をしないと耕作ができないということでしたが、当時の朝鮮半島南部の人たちは、登記に抵抗する人たちが多く、祖父もその中の一人でした。その結果、登記をしなかったということで農田が強制的に没収されました。そのため、父の家族は生活できなくなり、祖父は牛を売買する仕事をするようになりました。でも、農民ですから商売はうまくいかず、何年かたつと赤字になり辛い生活が続きました。祖父は借金を返すために「満州」に向かい、兄は父を捜しに旅に出ました。そして、1933年ごろ祖母は父を含む兄弟5人を連れて、7人の家族が当時の「満州」、現在の中国東北地方に移住しました。その時は中国と朝鮮半島の国境は厳しくありませんでした。夜、荷物を持って延辺から中国に入りました。あちこち移動し現在の黒龍江省チチハル市の郊外にたどり着き、地主から水田を借りました。幸い豊作でだんだんいい生活ができるようになりました。
 父は「満州」に移った後、小学校、中学校に通いました。当時は日本の関東軍が「満州」を支配していた時代で、学校では中国語、朝鮮語、日本語の教育が行なわれました。母も小学校で日本語の教育を受けましたが、私はそのことを知らず、1980年代に入り両親が突然日本語で話したことにびっくりしました。ある日、母が大学で日本語を教えている先生に街でばったり出会ったとき、普通に日本語を話しているのに驚き、いつ日本語を勉強したのかと思いましたが、小学校から日本語教育を受けたことがわかりました。
 父は高校に入る年齢になり、1942年にチチハル市の商業学校に入学できました。3年間ここで勉強しましたが、卒業する直前の1945年8月でしたが、日本軍に強制的に徴兵させられ、運送部隊に配属させられました。その直後の8月15日、日本は天皇の放送があり無条件降伏をしました。それで父たちは兵役を解かれすぐに自宅に戻りました。
 自宅に戻った父は、すぐに知り合いの紹介で母との結婚話が持ち上がりました。実は母は父と同じ小学校でしたが、特に親しい間柄ではありませんでした。ただ、母との結婚に関しては特に嫌な気持ちもなく二人は結婚しました。父は結婚後、1946年に東北民主連軍、今の人民解放軍に入隊して軍人になりました。母は黒龍江省の民族幹部学校に入り、帳簿や経理などを勉強しました。
 その後、父は軍隊から選抜され1947年12月にチチハル市公安局に配属されました。その翌年、1948年10月に瀋陽にある東北公安幹部学校に入り1年間研修を受けました。これはシベリアに抑留されている57万の中の約1,000人の戦争犯罪者を引き取るという準備段階として研修を受けたのです。この学校で世界情勢や東京裁判、政治状況などを勉強し、戦犯管理所で仕事をしていくうえで必要なことを学びました。そして、1949年10月に東北公安部政治保衛所に、1950年に撫順戦犯管理所が設立され、そこに配属されました。

戦犯管理所の職員の集合写真(1957年頃)

【撫順戦犯管理所でのこと】
 撫順戦犯管理所のオフィスビルには、私は幼いころよく遊びに行きました。この建物は地下1.5階、地上2.5階建ての建物で、建物としては小さいのですが、後ろからの通路はすべてこの管理所の監房につながり、迷路のようで歩いていくと1、2時間かかると思います。私は何回も入ったことがあります。
 写真は1957年ごろの写真ですが、当時の戦犯管理所の職員の集合写真です。最前列の白いシャツ姿の方は公安所長で、その右隣は映画に登場した所長の孫明斉さん、その右隣は父です。その時父は副所長でした。最後列の一番右は母です。母も管理所の仕事をしており、経理を担当していました。
 1950年7月20日969名の日本人戦犯は、ソ連から貨物列車に乗せられ黒龍江省の綏芬河駅に着き、中国側に引き渡されたあと一般の客車に乗り換え、翌日の21日に撫順戦犯管理所に着きました。それから、ほとんどの人は6年間、ここで教育、改造が行なわれました。また、その年の8月には溥儀と弟の溥傑、「満州国」の大臣など合計61名、ソ連から引き渡され撫順戦犯管理所に入所しました。
 日本が降伏後、実際は日本人に対する怒りや憎しみが強かったのですが、中国の国内は共産党と国民党の内戦が始まり、そのころは日本人に対する感情をぶつける余裕がありませんでした。1949年に新中国が誕生し、一気に中国人の日本人に対する感情が噴出しました。管理所の職員は日本人への憎しみがとても強く、日本人戦犯に対して顔の表情からもそれがはっきり表れており、あまり会話をしたくないとか、仕事をしたくないとかという気持が強かったです。日本人戦犯は恐怖心や不安な気持ちが強く顔もこわばっており、両者の立場が大変難しい状況になっていました。戦犯管理所の上層部の人たちは、このような状況を見て、これでは仕事ができないと思い、職員たちの勉強会を始めました。その時に周恩来総理の指示を受け、管理所内でこの1,000名弱の戦犯の人たちに将来どのような役割をさせるのか、その役割を担うためにきちんと教育をしなければいけない、殺人を犯した人間が一般の良識を持った人間の心を取り戻すには、どうしたらいいかということを戦犯管理所の職員たちに投げかけました。まず自分の家族や個人的な憎しみや恨みを置いといて、この戦犯は将来中国と日本の友好関係を築き、二度と戦争をしないような役割を担わないと、我々の仕事は意味がないということで、職員の意識を統一させることによって気持ちを落ち着かせ仕事をするようになりました。
 職員にはお医者さん、看護師さん、炊事担当、教育担当者など、様々な立場の職員がいましたが、それ以来彼らの態度が変わって、食事もかなり改善され、お風呂の温度も40度ぐらいに調整し戦犯が快適に入れるようにし、環境を整えていきました。そのような日常生活の中で日本人戦犯はだんだん恐怖心が薄らぎ、気持ちも落ち着いてきました。
 ある日、かつて「満州国」の国務院総務長官を務めていた武部六蔵が頭が痛くなり、職員が病院に連れて行ったのですが、病院に着いた時武部が倒れ、エレベーターがなかなか来ず、その時、温久達医師が1階から3階まで背負って診察室に入りました。武部は脳出血で半身不随になりましたが、命は助かりました。その病院で治療を受け、リハビリを受けたりして、看護師さんの献身的な治療で、少しずつ良くなっていきました。武部の刑は20年の判決を受けたのですが、体がよくないということで早めに日本に帰国しました。武部自身、このことに心を打たれ、多くの人がそれを聞いて感動しました。
 また、ある日、戦犯の中に視力が減退し手足がしびれ、ひどい人は歩けなくなるという病気が発生しました。戦犯管理所の医師たちもその時はどういう病気かわからなかったので、政府に報告し、北京から医療チームが派遣され、診察したら神経末梢炎だとわかりました。原因としてシベリアで5年間の過酷な抑留生活で体がかなり衰弱し、この病気になったと考えられます。薬を処方し大体1か月ぐらいで病気が治りました。
 当時、日本軍の中では梅毒に感染した人が多く、長い戦争の中で慰安婦と関わり病気になったのにもかかわらず、知られるのが恥ずかしくて口に出せなかったのですが、健康診断でわかってしまい、そのような人たちにもいい薬を投与し治療しました。管理所の医師や看護師の人たちが親身になって治療した結果、回復しました。このように感動させられることはほかにもたくさんあると思います。これらのことにより日本人戦犯も心を開くようになり、表情も和らいできて、お互いの距離が縮まってきました。

【戦犯の更生教育と「学習グループ」】
 そして、1952年当時周恩来総理は戦犯たちが自ら罪を認めて、自ら反省するような教育方法を考えてくださいと指示を出しました。管理所に収監された969人のうち31人は将校という階級で、210名は佐官、つまり大佐、中佐、少佐の3階級の人たちで、ほかの728名は尉官以下の人、つまり、階級があまり高くない人たちです。まず、尉官の中で学習グループを作りました。最初は14名の戦犯が自主的に参加し、管理所の職員は父を含め4人参加しました。      
当初はお話ししたり、資料を学習したりしていましたが、父の役割は通訳と学習を担当しました。テーマとしては戦争の責任はだれにあるのかということでした。戦犯の人たちのほとんどは上官の命令により戦争を行なった、相手を殺さなければ、自分が殺されるから自分には責任がないと言っていましたが、管理所の職員は確かに戦争を発動したのは、日本の軍上層部、政府によってですが、ただ、あなた方戦犯は軍人と軍人の間だけでなく、中国の一般の市民とか武器を持っていない人たちを殺している、中国側にはそのような証拠はありますが、自分が何をしたかは言わない、とにかく自分自身の犯罪行為については口を閉ざしていました。特に三輪敬一という人は、日本人と中国人がお互いに憎しみを持っている感情がもともとあり、中国人はずるいとかいろいろあるが、専門的には憎んでいる原因はわからないと主張しました。この人は東京帝国大学を卒業した後、民族研究をしていた人です。その人自身民族学的な知識や哲学を持っており、管理所の職員は彼のような知識は持っておらず相手にしなかったことから、彼はこの学習グループを辞めました。参加は自由でしたので、辞めても問題ありませんでした。
 このような学習会は3か月続きましたが、三輪敬一は自分が間違っていたと、またこの学習グループに戻りました。そして、戦犯たちは自分が何をしたのか告白するようになりました。最後に集計したら14人の戦犯は、一般市民を含め1,000人ぐらいの中国人を殺したことがわかりました。これは驚くべき数字ですね。この14人の戦犯が班長になり、学習グループを組織しました。この学習会によって、戦犯はほぼ2年間で自分がやった罪を認める告白をしました。もちろんその資料も作りました。1954年には学習が一段落しました。
 そのあと、中央政府から戦犯の尋問を行うために、700名の検察員を含む調査団900人余りが撫順管理所に来ました。そのとき、実は戦犯の人たちは後悔している様子で、自分がしゃべったことが罪として問われ、最後は死罪になるのではないかという危惧を持ちました。そのため、半年ぐらい皆は何も言わなくなりました。そして、個人面談が始まり、中国語では「坦白从宽,抗拒从严」と言いますが、「坦白(tǎn bái)」というのは包み隠さず自分が行なったことを自白するということですが、坦白をしたものは寛大に処せられ、罪が軽くなり、坦白をしないで抵抗するものは厳しく処分されるということを戦犯に説明しました。それで、1955年末には告白した内容と調査資料が一致した戦犯には、罪を問わないということで対処した。そして、中央の調査団が戻り、その後しばらくは学習会もなくなり、さまざまな活動が始められました。活動では太極拳グループや卓球グルーブ、サッカーグループとか、劇グループとか園芸グループなどが作られました。私はよく戦犯管理所に入ったのですが、よく覚えていることで、小さいころよくサッカーをやっていてボールが高く上がって塀の中に入ってしまい、その時に私が中に入ってボールを取りに行ったことがあります。中に入ったときは、日本人戦犯はすでに帰国していませんでしたが、国民党の戦犯たちがまだそこに収容されており、私は中に入ってびっくりしました。まるで公園みたいです。花が咲き、葡萄やリンゴ、梨の木があり、そこは収容所とは思えないほどでした。これはおそらく日本人戦犯の園芸グループが木を植えて作ったものだと思います。このような活動の中で戦犯も心がほぐれていったわけですから、少しずつ一般人に近づいていったのではないでしょうか。

【戦犯たちの現地社会見学】
 そして、1956年2月に周恩来総理の指示で、戦犯たちに中国の今の状況を見てほしいということで、社会見学が始まりました。遼寧省の瀋陽、大連、鞍山、吉林省の長春、黒龍江省ハルビン、それから武漢、南京、北京、上海など、11都市を回りました。その時は警備もついておらず、管理所の職員とバスや列車に乗ったりして、ただ服装だけは違いましたが、一般人と同じようにいろいろなところを見学し、中国の建国後の経済建設の速さを見て感動したようです。戦犯の人たちは日中戦争を通していろいろな場所のことはよくわかっていて、例えば、鞍山製鉄所はもともと日本人が作ったもので、日本は敗戦が近づくのを察知し、工場の大部分の設備を破壊し、ここを回復させようとしたら20年はかかるだろうと思っていたようですが、建国後5年でかなり生産状況が回復していました。当時のことを知っている人は驚いたようです。また、日本人戦犯はどこへ行っても自分たちが犯した罪の傷跡を見つけ出し、反省がなされたことで社会見学の意義が達成できました。この6年間、管理所の職員も罪を犯した戦犯に対し、罪人に接するような態度をとってきませんでした。これらのことを通し、日本人戦犯は普通の人間としての感性が戻ってきました。

【日本人戦犯の釈放と帰国後の活動】
 そして、1956年6月から瀋陽軍事法廷と太原軍事法廷で裁判が始まりました。6月21日、7月18日、8月21日の3回に分けて判決が下されました。3回合計して1,017名が起訴免除され、すぐに釈放されました。戦犯はこの結果について大変驚きました。中国のことわざに「お金で解決できる問題は問題ではない」というのがありますが、命はお金で解決できないこともあります。例えば、病気になったときはいくらお金を出しても、治るとは限らず、亡くなる場合があります。あと、犯罪者で死刑になった人は、いくらお金を払っても死刑になります。しかし、戦犯たちは犯罪を犯してきたが、最後は命は奪われることなく、すぐに釈放されました。判決が下されたときに戦犯の人たちは、号泣しましたが、私はこのような写真をたくさん見ました。また、45名は8年から20年の懲役を言い渡されました。その年数はシベリアに抑留された5年の年数も加算されます。中国6年、シベリア5年、通算11年、その中の一人は8年ですが、収監されずにすぐに釈放されました。44人は収監されました。
 その中に藤田茂という軍の中将で、たしか第59兵団の師団長だった人で、その人は18年の懲役刑でしたが、態度もよく自分がやったことをすべて告白し、年齢が68歳になっていることもあり、翌年の1957年に釈放されました。このように中国から帰国した人たちは中国帰国者連絡会を設立しました。初代会長は藤田茂さんでした。藤田さんは1965年9月に訪中して周恩来総理と固い握手をしました。その時の写真は中帰連の機関誌の表紙にもなりました。そして、国交正常化された1972年にも周恩来総理に招待され、中国を訪問しました。
 中帰連は戦争反対や平和憲法を守る活動などを行なってきましたが、けっこう日本社会への影響力があったと思います。ただ、中国の文化大革命の時期に、中帰連は二つの派に分かれました、つまり、文革に賛成する派と反対する派に分裂したのです。一時両者の関係が悪化したことから、父は1982年から1985年にかけて、両派が統一するように日本に来ました。そして、何度も皆と話をしたあと、やっと統一大会を開くことができました。

北京の両親宅にて

 その後、1997年に撫順戦犯管理所の職員たちの訪日の折に、中帰連設立40周年の会が開かれました。父はほぼ1年に一度来日しましたが、来るたびに中帰連の目的とか日中友好事業、再び戦争をしないことを皆とお話ししました。そのとき、NHKや他のテレビ局で父がお話しさせていただいたこともあります。父は1980年に北京の国際政治学院に勤めていましたので、中帰連の人たちが北京に来た時に交流をしましたが、1980年代には中帰連の人たちの息子さんや娘さんが北京や大連に留学した時に、父が保証人になっています。写真の男性は中帰連会員の息子さんの綿貫忠さん、女性は同じく中帰連会員金子安次さんの次女矢須子さんです。彼らが北京に来た時餃子や朝鮮料理を作ってあげましたが、とても好評でした。その時、金子安次さんは父と相談して、お宅の息子がもし日本に留学するんだったら、私が身元保証人になりますよということで、私は1987年5月に来日しました。

【日本留学と中帰連会員との交流】
 私は1987年5月に留学して35年経ちました。この間、中帰連の会の方や息子さん、娘さんと交流してきました。私が成田に到着したときに中帰連の金子安次さん、綿貫好男さん、新井宗太郎さんが出迎えてくれました。金子さんは身元保証人で1年間の生活費や日中学院の授業料などを負担していただきました。その日は空港から日中学院に行き入学しました。来日するまで私は日本語を勉強してきましたが、挨拶の言葉「初めまして」「どうぞよろしくお願いします」などが流暢に口から出てきたためか、金子さんや綿貫さんは私が日本語がよくできると思っていたようですが、実は日本語がほとんど話せない状態でした。でも、日中学院はとても楽しいところで、先生方は本当に親切でとても丁寧に日本語を教えてくれました。入学して2か月くらい経った時に富士登山などの活動に参加しましたが、その時は富士山の5合目近くの民宿に宿泊しました。また、卒業の修学旅行で熱海に行きました。江尻先生、加納先生、残間先生、南雲先生とその当時参加した日本語科2期生たちと楽しく修学旅行ができました。1年間日本語を勉強して少しできるようになり、日中学院にとても感謝しています。
 私は来日して1か月間は金子さんの自宅にホームステイをしました。金子安次さんは右端、左端は奥様で、いつも「お母さん、お母さん」と呼んでいました。この1か月は私にとってとても大事な1か月間でした。毎日、食事後奥さんとお話ししますので、その時いろいろ教えてもらいました。日本語のしゃべり方でどう言ったらいいか教えてもらいました。

金子さん宅にホームステイ 1987年


 それから綿貫さんのご自宅の狭山に3か月間ホームステイをしました。私(右)の隣が綿貫好男さん、その隣が春美さん、一番左は忠さんです。忠さんは私が来日する半年前に中国に留学していました。4か月間のホームステイのあとは、自立して生活するようになりました。綿貫さんの自宅から出た後、金子さんの浦安にある誰も住んでいない自宅に住むことになりました。3階建ての建物でしたが、私一人で生活しました。とてもいい家を提供してくれて、ほかの同級生と比べると贅沢な留学生活でした。
 

綿貫さん宅にホームステイ 1987年

また、中帰連の方々と一緒に札幌に行き、そこに住んでいる大河原孝一さんのご招待でしたが、雪祭りを見に行くことができました。大河原さんは中帰連の3代目の会長を担当されたことがあります。そのあと、中帰連会員の旭川の相川松司さんの自宅に招待され、そこで2、3日過ごし、近くの山の旅館などに行きました。中帰連の方たちにお世話になりましたが、この人たちは本当に戦争で人を殺した人たちと思えませんでした。中帰連の人たちは1956年に釈放されましたが、私は1957年生まれで、昔のことは正直わかりません。先ほどの話は父の本や資料、インターネットなどをもとにお話ししましたが、実際自分自身が感じることは、やはり、来日後、中帰連の会員の方と接して、皆やさしいおじいさんです。本当に信じられないくらいで、もしかしたらこの人たちは、戦犯管理所に恩返ししたかったのに、なかなかその機会がなく関係者である私に何かをしたいという気持ちだったのでないかと思います。
 中帰連は当時銀座に事務所があって、日中学院に留学しているときに、ときどき銀座に呼ばれて、普段私がご飯を食べていないと思ったのか、昼間でしたが高級なお弁当を出してくれました。このような形でも中帰連の方々と交流しました。

【大学院に進学し人工知能(AI)を研究】
 日中学院を卒業後、私は千葉大学の研究生を1年やり大学院に入りました。1988年8月に大学院の入学試験を受けることになり、工学部機械工作講座を希望していましたが、試験科目を見たら数学、物理、英語、流体力学、熱力学、材料力学、機械力学の7科目ありました。日本語がそれほどできていないのに、このような科目を勉強しなければならず、受験をやめて帰国しようかと思いました。そのときに金子さんの奥さん、私が「お母さん」と呼んでいる人ですが、受験をやめたいという相談をしたら、奥さんは大変怒られ、「あなたがこのまま帰国したら、私はあなたのお父さん、お母さんに何とお伝えしたらいいですか」と言って、受験するように強く勧められました。初めて日本のお母さんに厳しく怒られましたが、後で考えてみると、お母さんの言っていることが正しいと思います。自分ははるばる日本に来て日本語を勉強しただけで中国に帰るのは大変残念なことです。しかも、千葉大の教授も受験に合格したら、教授の研究室に入ってほしいと言われたこともあり、それから、アルバイトもやめ、ひたすら勉強し8月に試験を受けました。幸い合格し、翌年4月大学院の機械工作講座に入りました。私はコンピュータグラフィックの研究をやりたかったのですが、教授から勧められたテーマは、AIつまり人工知能ですが、機械製図や建築製図をAIによって開発するものです。2年間毎日プログラムを作ってソフトを作りました。それで、AIの修士号をもらいました。

【就職、起業、日中の経済発展の橋渡しとして…】
 1991年4月に川崎にあるニトックスという会社に就職できました。そこのCADセンターでCAD開発の仕事を担当するようになりました。ちょうどバブルの時代で、社員寮はワンルームでしたが、社長が私のために2DKの新築の部屋を作ってくれました。その時は私と女房二人入居できました。その後、日本の経済はバブル崩壊で会社の景気が悪化して、社長の方針でCADのパッケージの開発は中断するということになり、1996年10月に友人と二人で「ケイアイエヌ株式会社」を設立し、2000年には代表取締役社長を務めるようになりました。それから今に至り22年間やってきました。
 この間、綿貫さんの自宅には何度も行ったり、金子さんが私の家に遊びに来たり、家族ぐるみで親しくおつき合いしました。35年経った今でも家族同様におつき合いをしています。(金子)矢須子さんは非常に流暢な中国語で話し、(綿貫)忠さんも中国語がよくできます。
 私は中帰連の会員や次世代の人たちとの交流を進めてきましたが、私自身の事業も発展することができ80名ぐらいの会社になっています。取引先のお客さんからの要望で2002年に北京にソフトウエア開発センターを設立しました。一時300人ぐらいの規模の会社になり、日本向けのソフトウエアを開発し、うちの会社が受け入れる形が続いています。父の世代は戦争の時代でしたが、これからは戦争を二度としない、日本と中国の友好が続き、私は自分の今までの経験から、やはり日本と中国の経済がさらに発展できるように橋渡しの役割をさせていただきたいと思います。本日は皆さん、お忙しいところありがとうございました。私の話を聞いていただき感謝いたします。(文責:加納陸人)