倉石中国語講習会とわが人生

―1950年代に中国語を学んで―

講師 鈴木輝康氏

2023年12月2日に校友会主催で鈴木輝康氏の講演が行なわれました。鈴木氏は1939年中国の朝陽川(延辺朝鮮族自治州)に生まれ、牡丹江、太原、鄭州で激動の中国で過ごし、13歳で帰国。1958年に倉石中国語講習会に入学し、倉石先生の薫陶を受け、創立10周年記念で劇の主役を演じられました。大学では獣医の専門を学ばれ、卒業後都庁に勤務。専門知識や中国語力を生かし、友好都市である北京の要人の接遇と通訳などを担当され、日中友好交流に尽瘁されました。現在、NPO法人国際交流教育後援会北京外国語大学中文学部東京事務所理事、学校法人タイケン学園日本ペット&アニマル専門学校校長、日本語学校校長など、多方面で要職に就かれご活躍されています。


激動の中国に生まれて
 ただいま加納会長からご紹介していただきました鈴木でございます。私は中国との関係は生まれが中国ということで、小さい時から中国に興味がございました。先ほどご紹介にもありましたが、1939年、昭和14年の生まれで、「産めよ増やせよ」ということで日本人が増えていった時代でした。

 いつも中国の人にお父さん、お母さんが日本人なのに、どうして中国にいたんだという話を聞かれるから、言われる前に、お父さん、お母さんは侵略者の一員だったんだよということから紹介を始めます。父は盧溝橋事件が起きた時から航空隊に入り、退役してからは朝陽川でレンガ工場をこしらえて、建物はレンガで作るものですから工場にはたくさんの中国の人がいて、私は長男で将来は工場の跡継ぎだということで、学校に上がる前から馬車に乗って工場に行って中国人たちといろいろ接触をしていました。朝鮮族もいて朝鮮語もかなり話せるようになっていたのでございますが、今は何十年も使う機会がなかったものですから忘れてしまいましたが、単語はしゃべれるけど発音はどうか韓国の人などに確認を取りますと、非常にそれは正確だと言われました。

 それで、小学校に上がった年が敗戦ということで、今は言わないんですよね、終戦という言葉に変わっているようなんですが、私は日本が戦争に負けたという意識があったので、日本が敗戦したんだということで、小学校の入学式をやってもらったという意識はありましたが、毎日防空壕の生活をしておりました。もうソ連軍が相当近くに来ていて、毎日のように爆撃機がやってきたので、防空壕の中で暮らしておりました。そして、終戦を迎えるわけですけど、ソ連軍が朝陽川に入ってきて、その時に261部隊というのは関東軍に駐屯していた部隊であったのですが、そこに街の日本人の家族が全部収容されて、主な兵隊さんの中で若い人は南方戦線に送られて、年取った兵隊さんばっかりだったという記憶があります。そこでソ連軍がすぐに入ってくると思ったんですが、なかなか入ってこなくて、9月の二十数日後に入ってきて、ロシア語ができる人がいないので、年取ったおばあちゃんの中にロシア語ができる人がいて、ソ連軍の将校と日本の将校がいろいろ長い話をしていました。

 その時、すでに日本軍は負けていたということで、兵隊さんの三八式銃、九九式銃は全部庭に重ねて置かれていたのが非常に印象的でした。負けたんだという男の子としてはショックで、なぜ負けたんだということで、そして、その話し合いでどうなるか、我々の命はどうなるんだと、その恐れをひしひしと感じ、それが終わって女子供たちは、部隊から外に出すということで、あとは兵隊さんを全部トラックに乗せてソ連に連れていくということになり、ホロのついたトラックに兵隊さんが乗せられていきました。私たち子どもが「兵隊さーん」と見送ったら、兵隊さんは自分たちがもらった携帯用食料の乾パンを我々に投げてくれました。我々子供はそれを拾って食べて、ソ連に連れていかれてどうなるんだということを日本人同士が話していたんですが、あとでわかったのはシベリアの寒いところで強制労働をさせられて多くの兵隊さんが亡くなったと聞いておりました。

 そして、地元の中国のゲリラ部隊がおやじのレンガ工場の中にたくさん潜んでいたということがわかって、私のうちが朝陽川の街のど真ん中に600坪ぐらいの屋敷があったもんで、そこがソ連軍の司令部になって、ソ連軍が引き揚げたあとは中国のゲリラの臨時政府みたいなものができました。おやじは8月の敗戦1か月前に応召して戦死してしまったんですが、私のおふくろは、そこから呼ばれて、あなたのところは日本人扱いではないと言われました。おふくろがその代表にさせられて、私共の借家をこれから日本人が開拓団農民として中国に渡った人たちがソ連軍に追われて狂ったように逃げ回って朝陽川にたどり着いて行くところがないので、あなたのところが世話役をやれということで、おふくろがそれを受けて、借家にいた中国人と朝鮮人を追い出してくれて、日本人開拓団の避難してくる人たちを親切に扱ったということです。

 以前、おやじがたまたま中国の人たちと味噌と醤油の工場を作るということで、そこに原料があって中国の人たちが良心的で原料をどんどん運んでくれて、食べるものには不自由をしなくてすんだんですけど、とにかく寒いところでしたので、冬になると発疹チフスが流行しまして、われわれセーターを着ていたんですが、虱がすごいんですよね。兄弟がここにいるからと衣服をめくると必ずいて、それを手の爪でつぶすと血が飛ぶような状態でして、それをいちいちつぶしていたのですが、お湯を沸かしてセーターごとその中に入れて煮ると、はじめは生きているやつと死んでいるやつの区別がつかなかったのですが、だんだん捕まえるのに熟練していきました。そういう生活の中で発疹チフスが流行してどんどん人が亡くなっていきました。最初に亡くなったときの記憶では、みんなで穴を掘って鉄のトタン板を敷いてそこに薪を入れて、遺体を重ねて一晩かけて焼いて、ていねいに弔うことができました。次々に人が死んでガチガチに凍った遺体を重ね、日本人がいたところは必ず山の麓に鳥居のある神社がございましたから、その神社の近くに重ねて置いておいて、しかたなく亡くなった人たちをそこに安置し、5月くらいになって雪解けになったときに、まとめて大人が埋めるのを私たち子供がそれを見ていたことを今でも頭から離れないで覚えております。

 そして、ソ連軍が進注して半年ぐらいたった時ですかね、それはもうすごい略奪です。時計なんかはめていた人がいたら、全部持っていかれたりしました。幸いだったのは、朝鮮族、中国、日本人というのは、彼らは見分けができなかったということで、日本人はヤポンスキーですよね、ロシア語で。キタイスキー、カレンスキーといって、中国人、朝鮮人の見分けをするんですけど、実際にできないということで、特に迫害を受けずにすんだのが幸いだったという気がします。そして、半年たってもあらゆるものをソ連兵が持って行ったのですが、その時に満鉄の列車は持って行きませんでした。日本人が作った列車の軌道がソ連よりも広かったということで、持って行けなかったということです。中国では戦後満鉄の列車をそのまま使えたということで、私は子供ながら日本というのは本気で満州を開発しようとしていたんだなあと、機関車が動くたびに思いました。ものすごく大きいんです。スタートするときの音がダッダダダーといって、その連結車両も長く地平線に続いているように見えました。その列車を動かしているのも日本の若い人だったということで、技術も日本人はすごいんだなあということで見ており、まだ見ぬ祖国はどんな国か想像しておりました。

 まあ、そういうことで、戦後2年くらい朝陽川というところにおりまして、一応延吉とかの部隊に入れられたんですけど、その後、解き放たれて自分のうちに戻った時は、借家のところに入れられて、幸いおやじが中国の人を大事にしていたので、食べ物だけは飢えることなく、そのお陰で私は当時としてはでかい人間に育てられました。

国共内戦と朝鮮戦争の狭間で
 そして、引き揚げが始まりまして、日本の家族、女の人はみんな葫蘆島経由で帰国していったんですが、その時、私のおふくろが発疹チフスで、日本人のお医者さんがもう幾ばくもないと言っていましたが、ただ、まだ息をして生きているからと、私がいたずら小僧でおふくろの妹、叔母が連れ行くのが大変だから置いていくというので、一番上の姉と私二人が看病で残ることになりました。私の弟と二番目の姉が叔母に連れられて引き揚げていき、家族がバラバラになりました。それで、おやじが面倒を見ていた日本に留学した朝鮮族のお医者さんが、日本人がたった1軒残っているということで、訪ねて行ったら、鈴木のうちじゃないかということで、そのお医者さんが非常によく面倒を見て治療してくれたおかげで、死ぬはずのおふくろが生き返っちゃったんですね。これは今でも私は奇跡だったと思っております。そして、向こうからこちらに縄を張っておふくろが毎日歩く練習をして、みるみる回復していきました。その時におふくろが私に時計の見方を教えてくれて、今何時だと聞かれ、「今、時計死んでるとするよ」と言ったというので、おふくろはここにいたら私は日本語ができなくなってしまうということで、日本人のいるところを辿って行こうということになり、噂に聞いたら図門に行けばいるということでした。そして、図門に行ったら日本人が十数人いました。ただ、ここは学校がないから牡丹江に行けばあるということで、牡丹江に行ったら満鉄の人たちがかなりおりまして、小学校みたいな子供の教室を作って、そこで私は年数だけは経っているから、3年に入りなさいと言われてその小学校に入りました。それまで、授業はまったく受けていなかったんですけど、そこで初めて授業を受けました。

 おふくろはミシンを女学校で習ったのでミシンができるということで、中国の東北第一紡績工場というのができたので、中国の若い人たちにミシンを教えました。その前に機関車を運転する人たちの寮母さんがいないということで、6人くらいの女の人が50人から60人の機関車を運転する人たちの食事をこしらえたりして生計を立てていました。そして、「坊主、今日は機関車に乗りに行くか」ということで機関車に乗ったり、機関車の中で遊ぶことができ、勉強はしなかったけど私はそこで実践的なことを学ぶことができ、石炭をくべる姿、勢いもすごいなと、みんな筋肉粒々としておりました。そういったことでかわいがってもらいましたが、おふくろは先ほど言った紡績工場のミシンのところに行きました。私が学校に行く途中に日本軍の部隊がそっくり残っており、戦争が終わっているのに、日本の兵隊さんがそのままの軍服でいました。高射砲を迷彩のようにして筒だけは空に向かっていた。それは国民党との内戦が始まったからでした。それで、国民党の兵隊が進駐したかと思うと、翌日それが追われて八路軍が進駐してくる。八路軍が長くいたときに馬がたくさんいて、馬に餌をやるということで私は馬が好きだったので、毎日のように駐屯地に行っていましたから、中国の八路軍がとてもかわいがってくれまして、そこで中国語を話す機会があって中国語を覚えたりして、中国が解放されたときの八路軍が役に立つ男の子ということで親しさをこめて「小鬼」の言い方で私を呼んでくれました。とてもかわいがってもらったということで、八路軍のところに行くようになりました。

 国民党はその時八路軍に追われて長春、瀋陽、大連、そして、天津解放、北京解放ということで、どんどん勢いがついていくのを広場で白黒の記録映画を見せてくれました。記録映画が当時唯一の情報源だったんです。その時の八路軍の勢いからみると、蒋介石の国民党は負けると子供ながらに思っていたら、1949年10月1日に毛沢東が天安門で「中华人民共和国成立了!」と言って宣言したことが非常に印象に残っております。これで新中国が成立して中国はもう戦争がないんだということで、中国の子どもたちとよく遊んだりしました。男の子の仕事は草刈りでした。草を刈った人は1週間干しておく、それを束ねて背負って庭の前に積んでおく。刈っただけの干し草だけですとすぐに燃えてしまうので、木の根っこを掘って、その根っこを石炭みたいにいぶし、オンドルを炊くと一晩中燃えているわけですね。それが足りなくなると、石炭と泥を練るんです。それを火が燃えているところに入れて蓋をしていぶすようにして一晩寝る。密閉していますので、あちこち一酸化炭素中毒で死者が出ました。私はのちに保健所に勤務しましたが、中毒の仕事をやった時、その時のことが非常に私の仕事に役に立つ体験となりました。

 そして、私たち一家が紡績工場にいた時に今度は朝鮮戦争が勃発したという情報が入りました。中国の人民志願軍をどんどん戦地に送り出しましたが、数週間後には傷病兵が戻ってきて、よく見ると皆3人1組で歩いているんですね、なんでかなあと見ていたら、ある日突然、泡を吹いてひっくり返っている人を見て、あっ癲癇だと。その話をお医者さんにしましたら、あれは戦地で厳しい戦いで恐怖のために癲癇を起こしたんだと、誰でも癲癇は起こすんだけど、その恐怖の強さによって早く発症する人とあとで発症する人の違いだと…。まあ、癲癇が非常に多かったということです。その時はまだ皆さんが知っている三八銃だとか九九式の鉄砲、日本軍の鉄砲で、戦争もまだかわいい戦争だったように私は記憶しています。そのうちに、カービン銃を持っている兵隊さんが増えて、すごい装備になったなあと思っていたら、それは分捕りということで、毛沢東が「武器は戦線にあり」ということで製造していなかったということですね、分捕り品で戦ったわけです。

 その時に日本の技術者として残っていたのは、鉄道関係が一番多かったんですけど、軍工部として鉄砲の弾を作ったり手榴弾を作っていたりしていた私の友達のおやじさんなんかがそれを徹夜で製造していたということです。外科のお医者さんが戦地から引き揚げてきた傷病兵の弾を取ったりして、友達の父親が徹夜で弾を取ったりしている話を聞いたりしていました。小学校にも友だちのお父さんがいて、かなりの日本のお医者さんが活躍したということでした。

 それから、残留日本人の組織の中で思想改造という言葉がよく使われることになりましてね。中国の八路軍が入ってきて共産党政権ができたわけですが、私は勝った中国の人にいじめられるよりも日本人にやられたという意識のほうが強かったんです。というのは、思想改造の中で日本人の中で日本人を束ねる政治委員とか言われる人たちがいろいろ会を催して、かつて日本人が侵略したんだ、搾取だとか新しい言葉がどんどんできてきて、自分が悪いことをしたんだという反省会まで開かれて、それでも言い方が足りないということで、武闘で叩かれたりして死亡者が出たり、その子供が孤児になって中国の人にもらわれていった子供がかなりいました。それで、私が言いたいのは、戦争は敵も怖いけど、味方の悪い奴が自分の身を守るために、人に媚びを売るために日本人にそういうことをするのがいたんだということです。そして、その時代の変化についていけない人たちが言った流行語で印象に残っている言葉で「赤大根」といって、皆さん聞いたことがありますか。中国にいらした方は聞いたことがあると思いますが、表面づらは思想を赤くして中は真っ白なんだと、日本に引き揚げてきたらそういう人間はかなりいたんだと、現地では共産党や八路軍に賛成した人が帰ってきたら、手のひらを返して日本で就職したりいろいろやっていました。その時の恨みつらみは、私のおやじがかつてレンガ工場をやっていて、中国の労働者を搾取したんだと言われ、おふくろも呼び出されて思想面で厳しく取り締まられました。私は男の子だったから、おふくろをいじめた子どもに暴力を行使したことがあって、そのことを学校で先生に言われたものですから、非常に痛めつけられたという記憶があります。私は中国人にやられるよりも日本人にやられたという意識のほうが強かったです。むしろ、中国の人のほうが親しみを感じ、敗戦国の人間の扱いではなくて、草刈りに行っても魚取りに行っても、家からとうもろこしを持ってきても半分っこして食べるというような兄弟みたいなことをしていたので、中国には非常に好意を持って引き揚げてきた気がします。

太原での人民裁判
 そういうことで、引き揚げが始まる前の1950年に朝鮮戦争が勃発し、残留日本人の技術者は、中国各地に分散して移動することになり、私たち牡丹江組の一部が山西省の太原に移動させられたんですね。閻錫山が台湾に逃げて半年後にそこに行きましたので、太原がまるで戦地のあとの状態で、ついこの間終わったばっかりで何が始まったかかというと、閻錫山のもとでいばり散らした人が人民裁判にかけられて、汾河という黄河の支流の河になりますが、そこのほとりで銃殺刑が行なわれるのを私は男の子なものですから何度も見ました。教室には7人の生徒しかいない、それを見たい、行かせてくれと先生に言ったら、とんでもないと怒られたが、しかし、何としても見たいから先生が黒板に字を書いているすきに、夏で入口が開いていたものですから、飛び出して何回も見に行きました。それで、おふくろが学校に呼び出されて、非常に怒られました。その時、アスファルトでない石の道で裸足だったんですが、人間というのはそのような状態になると猿のような足になるんですね。今、怪我をすると破傷風になったり恐ろしい病気になることがあるんですが、よく病気にならないで生きてきたと思いますが、これが私の当時の生活状況です。まあ、そういうことで戦争のあとの人民裁判のすごさというか、銃殺される前にスローガンでワイワイ言ってトンガリ帽子をかぶらされて車に乗せられ、川っ縁に降ろされて殺される一部始終を見たというのが自分がまるで中世に生きているような気がしました。

 太原という街は城壁が真四角に万里の長城よりももっと頑丈な城壁に囲まれて、そこは城内と城外に分かれておりまして、なかなか落城しなかったそうですね。そして、あとで知ったんですけど、閻錫山は日本軍が帰る前に日本軍の司令官に言ってお抱えにしたんだということで、すごく強かったようです。手を挙げて出てきたトップに城野宏という人ですが、聞いたことはありませんか。東大出の中佐だったそうです。記録映画を見ていたら最初に日本人が出てきたということでびっくりしたんです。それが城野という人で、なぜ閻錫山に加担したかというと、その人が書いた本をあとで読みましたら、日本が復活するためには太原にある山には石炭から銅からあらゆる鉱物が埋蔵されていると。だから閻錫山と一緒に戦って日本の復興にそれを使うんだという気概のあった人だったということがわかりました。城野さんは捕らわれの身になり、特別軍事法廷で18年の刑を受け、太原戦犯管理所、その後、撫順戦犯管理所に収監されました。あとでその人の書いたものを見たら人民公社のことが書いてありまして、それが非常に正確に書かれているものですから、おそらく軟禁状態にされて自由にしていたのではないかと思われます。

 それから瀬島龍三という人で、伊藤忠か何かの会長になって、池田勇人総理が使いを出して、共産党に思想改造されたことを一言もしゃべるな、と言ったということを何か新聞の記事で読んだことがあります。それは「赤く」染まったということで、将来がないよという意味だったということでしたが、のちに伊藤忠の会長とかいろんな所のブレーンになって活躍しました。また、城野さんもいろいろ本を出したりして、私もそれを読んだりしました。  

 しかし、その時に司令官が嘘を言ったわけですね、天皇陛下はそんな命令を出していない。司令官は閻錫山に加担して戦えと、新しい命令が陛下から出たんだと兵隊に言って、兵隊はそれを信じて戦って、八路軍に捕まって、兵はすぐに帰国させてもらったんだそうですが、敵前逃亡と同じ扱いを受けました。今単行本が出ていると思いますが、『蟻の兵隊』を読んだ方がいらっしゃると思いますが、今でも訴訟をやっていると思いますが、高齢になっていてだんだん亡くなった方もいて、かわいそうに恩給がもらえないということで、私は裁判をやっているということを聞いていたんですが、最近は聞いておりません。私がいた鄭州に中学校ができたときに、八路軍に包囲されて食べ物もなく太原の城内にいた人たちに、どうだったかという話を聞いたんですが、城野さんは最後まで日本人としてリーダー的な存在だったという話を聞きました。城野さんはもう亡くなっていますが、この間、たまたま内山書店に行ったら、『人民公社の形成』という本を出しているということで買いました。定価よりも高くなっていましたから、値打ちがわかるさすがプロの内山さんだと思って買ってまいりました。

引揚船「高砂丸」に乗って
 引き揚げる1953年の半年前に鄭州に日本人の子弟を集めた中学校に行き始めました。鄭州日籍子弟中学校というのができまして、そこに私も太原から列車に一晩乗って河南省の鄭州に行きました。そこで半年中学校に行きました。その学校には日本人と中国人がいて、その時の校長先生が近藤先生という方だったんですが、これは引き揚げ後わかったんですが、東亜同文書院の大先輩だったということで、帰国後、すぐに愛知大学の事務局長になりました。今息子さんが教授になっていると聞いております。教育も思想教育を含めた同窓の人たち1年、2年と毎年1冊『鄭州』という同窓会誌を作って出しております。今年も旅行をやったんですけど、みんな歩けないとか体の状態で十数人しかいなくて、団体の形で行動できなかった。私は学校の仕事があったので行けかったのですが、このような状況で今では少なくなってきまして、寂しい状況になってきました。

 それで、1953年に朝鮮戦争が停戦になって日本の赤十字と中国の紅十字会とまだ国交回復前ということで引き揚げが始まって、出港地は天津のタンクー(塘沽)、上海、もう一カ所の三カ所くらいで、皆さんご存じの高砂丸、白山丸、興安丸の3隻がたくさんの人をピストン輸送して、最後の引き揚げということで、私たちは山西省の太原から天津に行ってタンクーから高砂丸に乗せられて舞鶴に帰ってきました。その時、中国は長い間ご苦労様でしたということで、非常に温かい餞別までくれました。帰国する日本人は働いていた職場から餞別をもらったのですが、おふくろはミシンの指導の仕事でしたので、職場からは出ないということで、紅十字会から支援金という形で持ってきたのですが、私のおふくろは気が強かったものですから、私のうちは工場からすべて全財産を中国に寄付して帰るんだ、そんな物はいらないと言ったら、そばにいた日本の共産党員の「拍马屁」(媚びを売ること)というか、媚びを売っていた日本人が「何を言っているんだ、侵略して搾取して!」と言ったので、「とにかくあんたは黙っててください」と言いました。私どもは命が大切で日本に返してもらえばいいというやり取りをしました。その息子が私と同級生だったんですけど、もう亡くなっていますが、細かい話をしたらいろいろありますが、私が手を加えなくても天が罰を加えたということで、日本に帰ってきたらみじめな生活だったという記憶があります。とにかく、おふくろは憤慨して、明治大学を卒業している紅十字会の会長がわざわざ来てくれて、どういうふうにして書けば、受け取ってもらえますかと言うので、日本では餞別という形で出す場合がありますと言ったら、餞別と書いて持ってきたんで、中国もすごい柔軟になったんだなあと、私は子供ながらに思いました。そして、対等になったらまた中国に来てやろうと思い高砂丸に乗りました。その時、皆さん聞いたことがあると思いますが、中国の見送りの人たちが「五星红旗迎红飘扬♪♪」という歌を何度も歌って、紙テープで見送ってくれまして、舞鶴に帰ってまいりました。

 その前にお話を飛ばしてきたことが一つあります。1947、8年頃の牡丹江のことですが、私はいたずら小僧で機関車が出ていくところが好きで、いつも機関車のところに遊びに行ったんですが、コークスの中にピカッと光ったものがあったんです。それを拾っておふくろに金かもしれないからお金になるかもしれないからと持っていったら、おふくろはそれは人の死骸の金歯だから捨てろと言われました。私は男の子だからどうしてもこれはお金になるんじゃないかと思っていたら、寮の若い人がやって来て、私がしょんぼりしていたものですから、どうしたんだと言うんで、じゃあ、それを街に持っていって売ってみようということになり持っていったら、それが全部プラチナだったんです。これは奇跡です。寮の人は当時、牡丹江から図門江に行って、そこから泳げば日本に帰れるということをうわさで聞いていたんで、それで私のおふくろは、プラチナのお金の一部をその人にあげて、まず、図門江まで逃げてくださいということで、図門江まで行きました。そして、夜サーチライトの間を縫って夜陰に飛び込んで、図門江を渡って朝鮮に行って日本にたどり着いていました。 

 1953年、私たちが日本に着いた時に、私のおふくろはその人の住所を聞いていたものですから、私たちより先に帰っていた私の家族に、私たちが生きていることを伝えてくれてまして、皆が生きているということで、一晩中、皆で喜びました。おふくろは死んだものと家族に思われていました。これはあとでわかったのですが、その人は広島出身で広島に行って原爆の投下のあとでどうしようもなくて、その後、大阪に行ったら警察官の採用があって警察官になっていました。そして、大阪万博のときは、おふくろはその人の家に泊まりながら万博に行くことができ、その人は今はお亡くなりになりましたが、思い出の一つになりました。

日本での新しい生活
 舞鶴というところはシベリア、中国方面から引き揚げてくるのを一手に引き受けていました。私は行ったことがありませんが、今は舞鶴引揚記念館ができて、当時の物が陳列されているそうです。そこにはおふくろは行っていますが、私も近いうちに行ってみたいと思います。

 1953年3月に秋田がおやじの故郷だったものですから、そちらに行きましたらおふくろもおやじがいない所ではどうしようもない。おやじが土地を買うようにおばあちゃんにお金を送っていたので、土地や田んぼを買ったりしていたんですけど、農地改革で不在地主で全部土地を没収されて、おやじの弟がその一部をもらっていたという程度でしたから、このまま秋田にいたのでは子供たちも慣れない土地で生活も大変なので、学校に行かないでお百姓をするので終わってしまう。東京におふくろの弟がおりましたので、東京に出てきました。今は府中市になっていますが、当時は府中町だったんです。そこに5月か6月ごろに行きましたら、81戸の引揚住宅を東京都が建ててくれていて、そこに中国外地から引き揚げてきた人たちが住んでおり、府中第一中学校に入ることになったんです。町役場に行ったらあなたのお子様はもう義務教育の年齢を過ぎていますから、学校に行かなくてもいいですよ、と言われました。鄭州の中学校に半年行って引き揚げているので、私のおふくろはこの子は学校に行っていないんですよと言って、係の人とものすごくやりあったら、じゃあ、1年から行きますかと言われ、中学1年からやらされました。それが私が大学に行ける運命の分かれ道でした。もしおふくろが町役場の係の言いなりになって、そうですかということで私が中学校に行かなかったら、そこで私の一生が決まっていました。ですから、母親というのは非常に大事なんだなあと、今でも思い出します。そして、その時に引揚者に対しては基本的に援護局が生活保護を引揚者の全部の家庭に出してくれていたんですね。それを知らないで学校に行ったら、担任の先生が数冊の本を束ねて「鈴木さーん」と言って、先生の所に取りに来るように言われた時、向こうの方から「なんだあいつ生活保護をもらっているのか」というのが聞こえちゃったんですね。家に帰って生活保護ってなんだとおふくろに聞いたら、これは引き揚げてきた人がもらっているもので、引揚者が現地では大変だったから全員がもらっているお金だと。それと日本に元々いた人で生活が苦しい人がもらうお金だと聞いた時に、私は学校で聞いたあいつは生活保護をもらっているのかという言葉に、ものすごく腹が立って、おふくろに生活保護をもらうのはやめてくれと言って、それから朝早く起きて国分寺の朝日新聞店で新聞配達をやりました。

 そこの新聞店の主人も戦死して奥さんが店主になっていました。私たちと同じ境遇だったものですから、とても大切にしてくれて、お金も余計にくれたりしました。ですから、おふくろに生活保護を断ってくれと言って、私と弟が新聞配達をして生活保護をもらいませんでした。その時はその先生とその男をものすごく恨んでいましたが、この歳になってみて、その男の人が言ってくれたから頑張ったんだということで、今は感謝の気持ちになっていますが、その時は本当に怒り狂った状態でした。

 私は運命論者ではありませんが、運命というのはいろいろ左右していて因果応報というか、正しいことをやっていれば、必ずいい運に巡り合える。隣に座った同級生に私が獣医になりたいと言ったら、その子のお父さんが獣医大学の別の科、獣医学科ではありませんが、農芸学科の教授だったんです。自分のおやじの大学には獣医学科があるよと、それが今騒がれていますが、日大の獣医学科で、そこの付属高校に入ると大学に入りやすいよと言われ、付属高校に入ろうと思い、今二次募集をやっているからということで、おやじさんに頼んでみると言われ、そこを受験することにしました。締め切ったあとの補欠募集の中に入れてもらって、そこを卒業して日大の獣医学科を受験して入ることができました。今、日大はアメリカンフットボール部の大麻のことでかなりやられていますが、廃部にすると言ったら、関学関係者が3万人からの廃部撤回署名をしたので、私は残るような気がします。日大のアメフト部はライスボウルで4回も優勝したり、私が大学にいたころは出ると勝つ、出ると勝つで、一番強いところだったのに、いつの間にか大麻で汚染されましたが、日大だけでなく、他の大学でも大麻汚染が出てきていますよね。早稲田もこの前相撲部がありましたし、今、大麻はこの間息子がタイから戻ったんですが、当たり前のようにタイでは使用しているそうです。だから、日本でもそのようになるうわさが出ているようで、何らかの効果があるかわかりませんが、相撲部などを取り締まることも大事ではないかと思います。いずれにしても世の中を騒がしているんですが、日大獣医学科は今年の獣医師国家試験の合格者が132名で、日本で一番多く、二番目の合格率でしたので、後輩たちはがんばっているわけです。日大生のみならず、日本全国の高等教育を受けている皆さんに人類のリーダーになってもらう人材として活躍するように願っています。

東方学会ビル入口

倉石先生との出会いと就職
 今思うと、私は獣医の大学に入って、都庁に入るのも運命だったんですね。教授が肺癌になって癌センターから家に戻されて、余命いくばくもないと聞いたんで、私は就職活動をやっていなかったものですから、先生の所にお見舞いに行ったんですね。そしたら先生が飛び起きるようにして、今日は普通の日なのになんでお前はお見舞いに来たんだと言って、しょうがない奴だと言われ、私は東京以外のところに就職したくないんですと言ったら、獣医がそんな気持ちだったら、最初から獣医学科に来るなと言われて怒られました。その時、教授が手帳を出して、それなら都庁しかないと言って、東京都の職員にわざわざ電話をしてくれました。電話をしたらオリンピックが1年後に東京で開催されることから、特別に二人募集しているという情報が入りました。その締め切りが今日だということで、何とか間に合い都庁に入ることができました。非常に運を感じましたが、教授は2週間後に亡くなりました。私はそこに定年までいるとは思いませんでしたが、定年までいてよかったと思います。

『ラテン化新文字による中國語初級教本』1953

 話が前後しますが、大学受験が終わったときに、神田にある東方学会ビルの倉石中国語講習会というところで日本でただ一つ中国語をやっているということで、どんなところでやっているのかと思って、学校が早く終わったときにのぞいてみましたら、倉石先生がちょうど講義をやっているところでした。私が教室をのぞいているところをトントンと叩く人がいて、寺田さんでしたか、事務の担当の方がどうぞ中に入って聞いてくださいと言われ、教室に入りました。夜の授業だったと思いますが、当時大学院の東大や早稲田の学生がいっぱい来ていて、中国から帰ってきた大塚淨さんなんかもいたような気がします。それから、沢山晴三郎さんだとか、当時の引揚船で一緒に帰ってきた私の先輩格の人たちがおりました。そして、大学院の人たちに交じって私もそこに座って聞いていました。何だったか覚えていればよかったんですが、倉石先生が質問をして、一人を指したらその人がわからない、二人目もわからず、何人も指していって、最後になって誰も答えられませんでした。倉石先生は私に「あなたわかりますか」と言って、私は中国から帰ってきて6年ぐらいなものですから、私がいとも簡単に答えましたら、先生がゼスチャーを交え「そのとお―りです」と言って、ものすごく褒められました。「豚もおだてりゃ木に登る」と言うように、私はそこから中国語をまたやるんだという気持ちになりました。そして、私は倉石中国語講習会の初級の新島淳良先生のクラスに入りました。中国で中国語をやっていましたが、文字を習ったりとかピンインはやったことがないので、耳で聞いた東北の巻き舌のない「ウォースー、ニイスー」と、何でも「スー」、日本人を「イーベンレン」、「ren」も「イエン」というような発音でいい加減な発音だったんですが、それがラテン化新文字による教科書でしたが、あれが私にとって中国語を継続して勉強する教科書になりました。「Shéi  yā ?」「Wǒ.」「Nǐ  lái le !」「Tā  ne ?」「Tā  méi  lái.」「Tā  zěnme  méi  lái ?」と、今でも暗記しています。その後ろに「どういえばよいか」の簡単なやり取りができる練習が載っておりました。その時つくづくと思ったことは、中国語は卓球をやるのと同じだなと思った。なぜかというと、学校で習った人はいったん頭に入れて日本語の引き出しから、それを口に出してくるもんですから、レイコンマ何秒か遅れるんです。だから、中国の人がもういいやと思って、他の話題に変えていくようなことがあるようです。それで、私はこの教科書がよかったのは、初級の本としてそれしかなかったんですが、耳と口で勉強できたことです。夜3か月行って、テープレコーターもソニーのができたばっかりで、それしかありませんでした。また、リンガフォンを聞いたら「he」というのを「ハン」という発音をしているんです。倉石先生に聞いたら、あれは「Laǒshě」(老舎)だと。それを聞いてびっくりして、「老舎は北京人じゃないんですか」と言いましたら、「そうなんだけど北京の方言ですよ」と言われ、「北京にもそういう方言があって、標準語ではないのですよ」ということで、ああ、学者っていうのは中国語を勉強してそこまで研究しているんだという印象が強く残りました。

老舎講演会 1965.4.23

老舎との縁
 のちにLaǒshěが招待されて倉石中国語講習会に来た時に、人がいっぱいで善隣学生会館が狭いので鈴なりになっておりました。私は窓から首だけ出してLaǒshě の姿を見ただけだったんですけど、それも縁がありまして、息子さんShūyǐ (舒乙)が数年前になくなりましたけど、お父さんの跡を継いでおりました。六本木に「廬山」という中華料理屋さんがありまして、日中交流の代表接待によく使われていました。中国の代表団が来ると必ずそこで御馳走したんですね。その時にLaǒshěが御馳走がおいしいということで、厨房の人をほめる記事を読んだことがありますが、「上海の間」に短冊にして書いてあったんですね。蘇軾か何かの詩で私が廬山の中にいるから廬山の良さがわからないのだと、廬山の外にいれば景色が外から見えるという詩だったと思うんですが、その詩を使って、私は廬山の中にあって廬山の良さを知ったと。今いる廬山の店と廬山を掛け合わせて廬山の中で食事をして廬山の良さを知ったということで、廬山の厨房の調理師を褒めた短冊があったんです。90何歳で亡くなった中山時子先生がShūyǐのお姉さんを招いたときに私がその話をしたら、それをShūyǐに話したそうで、北京まで講演に来てくださいと言われたんですが、ちょうど私が忙しい時だったものですから、行けなかったのは今考えると残念だったんです。そして、北京市と東京都の友好交流の中で団長として来日した心臓外科医がShūyǐと大学受験までずっと部屋が同じだったということから、団長がShūyǐの無二の親友で、何かあったら何でもやってあげるということで、その団長の娘さんが日本に留学に来るのに保証人が必要だということで、姉妹でしたが二人の保証人になりました。今、二人とも日本にいるのですが、妹は学習院を卒業して、姉のほうは国際大学を卒業して今日本にいて幸せに暮らしており、今でもつながりがあります。このような話はこれだけで2時間ぐらいできる面白い話があるんですが、またの機会にしたいと思います。

倉石中国語講習会創立10周年のころ
 また、当時私は江尻事務局長とつながっておりまして、倉石先生のところで何かあると、こういうのがあるから来ないかと声をかけてくれました。倉石先生の『 Lóng xū gōu (龙须沟)』の最終講義があると江尻さんに教えてもらって、そこに出席したのが最後でした。倉石中国語講習会創立10周年は、たまたま善隣学生会館といろいろ問題があったんですけど、10周年をやるということで演劇をやりました。『为了六十一个阶级弟兄』というタイトルですが、その劇をやるというので、芝居をやる才能がまったくなかったのですが、中国語をしゃべる機会が一番多いのが劉書記だからということで、主役にさせられ千代田公会堂でやりました。それが10分くらいNHKを通して中国に放送されましたこともあとで聞きました。

劇『为了六十一个阶级弟兄』 劉書記を演じる鈴木氏(左)1961

 私は初級から倉石中国語講習会にお世話になって、中級の時は長谷川良一先生で、あの先生はすごいタフな先生で、13文字ぐらいの文章を全部暗記させるんです。それでどんどん指していくから予習もしていかなければならない。発音を非常に厳しく直されたので、それで私は倉石の初級、中級に行って、あと研究科で欧阳可亮先生が秦の始皇帝の面白い話をしてくれたり、梁夢廻先生の授業を聞いて大変面白く、いい先生がいっぱいおりました。その中で沢山晴三郎さんだとか大塚浄さんがいましたが、大塚淨さんは太陽交易という会社を起こしました。私が大学を出た時でしたが、「俺がピッチャーをやるから、君はキャッチャーをやらんか」と誘われたんですけど、何人かがせっかく都庁に入ったんだから、「鈴木さん、都庁に行きなさい」ということで、よかったか悪かったかわかりませんが、そんなことがありまして、しばらくお会いできないまま大塚さんは確か60歳で亡くなったと聞いて、中国語達人としてもう少し活躍していただきたい人で残念でなりません。

日中友好交流を支えて
 沢山さんは国際貿易促進協会、宮石林治という人も一緒に引き揚げてきて、その人が事務局長になったりして、非常に就職関係も面倒見のいい人で、その人のお葬式、宮石さんのお葬式には、現在の外相の王毅さんが中国大使をやっていた時だったと思いますが、式場にいらしていたことが印象深く残っています。当時の私が倉石で実践的に中国語をすぐ使えたということで、日中文化交流協会に中島健蔵先生と亀井勝一郎先生がいて、その事務局長が白土吾夫さんで、白土さんと村岡久平さんがいたんですが、のちに村岡さんは日中友好協会の理事長になられて、中国から友好代表団が来るたびに、「鈴木、ちょっと手伝いに来てくれ」と言われました。私が代表団の接遇担当をしていた1960年頃でしたが、戦後最大の民間交流の代表団で甘粛省のデザイナーの指導者が北京から来るんだと、その中に常沙娜という女性が代表団の一員として来ておりました。すでに90何歳になっていると思いますが、現在も存命で活躍されているたぶん唯一の人であると思います。最近、画像で甘粛省で元気でお話している姿を見ることができました。あとは中国の当時の交流で来日した映画監督だとか俳優だとかは、もうほとんど亡くなっています。日本側の白土さんも村岡さんも亡くなり、中島健藏先生や亀井勝一郎先生、井上靖会長などもいなくなってしまいました。  

 1961年、私が日中関係に携わって一番若かったのですが、今日ここに来たら私が一番年上になってしまい、非常に寂しく思っています。当時日中友好の卓球でも村岡さんがすごい活躍をしていて、私は目の前で世界チャンピオンだった荻村伊智朗の試合を見て、中国側の世話役を私はやったりしていました。倉石先生は中国語を耳で聞いて話せるような教育をしたいということをおっしゃっていて、私は今中国語をあちこちで教えていますが、日中学院はその中心にあるのではないかと思います。それは倉石先生の教えが踏襲されていると思っています。私は倉石中国語講習会に行けなくなってからは、ほぼ独学でやっております。中国のCCTVのテレビを見るか、ラジオを聞いています。それと、今一番いい環境は中国から留学生がたくさん来ています。それも大学院を出たレベルの高い人たちが来ています。

 明日、日本語能力試験がありますが、私が面倒を見ている学生が二人いて、N1をねらっていますが、私は二人とも合格すると思っているんです。また、日本語学校の校長をしておりますが、中国の優秀な学生がいっぱい入ってきて、日本語の勉強をすごい勢いでやっていますので、それに刺激されて日本の若い人がそれに負けずに頑張らないとだめです。日本の経済も低迷していて、ずっとGDPがナンバーツーだったんですが、今ナンバーツーは中国になり、ナンバースリーがドイツになり、残念ながら今ナンバーフォーに落ちていることを聞いてですね、もっと頑張るようにしてほしいです。もし、今日若い人がいたら中国語をやると決めたら、一生かけて頑張ってくださいと励ましたかったんですが、少子化で学生さんが少なくなって非常に残念です。

わが人生を振り返って
 私は今日講演があったんですが、夕べ中国の人の息子と娘さんが永住許可の申請をするのに、先生、書類をお願いしますということで、家に帰ったのが夜10時を過ぎていました。

 倉石中国語講習会に行って勉強をしていたおかげで、実践的な中国語を身に着けることができましたので、今、毎日中国語を話さない日はないという生活で、そして、ウィーチャットにもいっぱい連絡する人がいて返事をするのが大変です。また、北京外国語大学との関わりもありますので、日々その先生たちとやり取りをしています。わが人生を振り返ってみると、倉石先生のところで中国語の基礎を学んだおかげで今楽しい思いをしているということです。また、加納会長さんにこういう機会を与えてもらって、本当ならもっと若い人に聞いてもらいたかったのですが、今後も続けて中国と一人でも多く交流をしていきたいと考えております。

 私はこれ (ダウンジャケット) をクリスマスプレゼントということでいただきましたが、3万ぐらいかと思ってお礼をするのに、見知らぬ女性がこれと同じメーカーのコートを着ていたので、いくらぐらいか教えてくださいと言ったら、これ20万はしますよと言われ、私はびっくりしましてね、いやあ、彼らはそこまで感謝しているのかと思いました。

 留学をした中で、一番成功しているのが安徽省で2万人からの大学を創立した男が一人いまして、1980年頃、今そちらにいる私の同僚と一緒に淀橋市場に勤務していたときに、場外でアルバイトで栗を焼いていたんですね。中国人かとたずねましたら、そうだと。で、どこの大学を受験するんだと聞きましたら、東大を受けるちゅうんですね。栗焼いていたら東大受からないよと言い、じゃあ、あとで私の事務所に来なさいということになりました。  

 それから仕事で場内をまわっていたら、たまたま輸液のセットを作っている友人がいたんで、とにかく栗を焼いている男は、優秀だから10万から15万ぐらい出してくれないかとお願いしました。そうしたら東大に入ったんです。そして卒業して会社に入り中国に帰国し、その男はなかなかのやり手で人民代表になっていました。私が北京へ学生の引率で行くと必ず会いに来てくれて、今でも交流していますが、また、専門学校をはじめ大学まで設立し、2万人からの学生を擁し、安徽省出身の中では出世頭だと言われています。

 それから、私はよく喫茶店に出かけて行って、中国人に中国語で声をかけると、日本人の親しい人に何かしら教えてもらいたいという気持ちを持っており、それをやってあげると、非常に喜んでくれます。私が最近コインを集めているということで、中国に連絡をしてパンダのコインを贈ってくれました。回しますので見てください。

 人生84年生きてきて思うんですけど、昨日たまたま財布の中を見たら、昭和29年(1954)の10円玉、それと、これは令和元年の新品です。昭和29年にはギザギザがあるんですよ。これは私が中国から帰国した翌年ですが、ギザギザがなくなるまで70年近くも社会に貢献してくれたと思って、私は大事にとっておこうと思っています。

 最近、人生100歳まで生きられる時代が来たと言われ、60歳で定年になってから専門学校、日本語学校等で校長として勤務しておりますが、あと何年働けるか、健康で働ける年齢に挑戦しております。(文責 加納陸人)