戦後80年の今だから、忘れてはいけないことがある
2025年9月27日に校友会主催で、首都圏中国帰国者支援・交流センターから中国残留婦人三世の巻口清美さんと残留孤児二世の泉田俊英さんのお二人の「語り部」をお招きして中国残留邦人等の体験を伝える「戦後世代の語り部」講話会が行われました。

終戦当時、いわゆる「満洲」(現在の中国東北地方)には軍人の他に155万人の日本人が住んでいました。この中の27万人は日本の国策で送られた開拓団として農業に従事している人たちでした。1945年になると戦局の悪化に伴い開拓団の青壮年男性(17歳から45歳)が軍隊に召集されたため開拓団に残っていたのはほとんどが老人婦女子ばかりでした。1945年8月9日突然ソ連軍による攻撃が始まったために現地は大混乱になり、国境付近に入植していた開拓団の老人婦女子は安全な地を目指して着の身着のまま徒歩で逃げまどいました。逃避行の途中ではソ連軍の攻撃だけでなく現地民による襲撃もあり、集団自決する人たちもいました。極度の疲労と飢餓、伝染病の発生で死亡者が続出するという悲惨な状況でした。このような混乱状態の中で肉親と死別、離別した幼い子供が中国人養父母に引き取られて育てられました。家も職も失い衣食にもこと欠きやむなく中国人と結婚せざるを得なかった女性たち、何らかの理由で残留せざるを得なかった男性もいました。前者を「中国残留孤児」後者を「中国残留婦人」「中国残留婦人等」と呼び、これらの人々を総称して「中国残留邦人」と言います。
戦後の日中関係を語るうえで中国残留邦人問題は決して避けては通れない忘れてはならない問題です。中国に取り残された残留邦人本人だけでなくその家族たち一人一人の人生に深い影響を与えました。中国に残留した残留邦人本人はもちろん、日本に帰国したものの結果的に子供や妻を中国に置き去りにすることになった家族の思いや苦労はどれほどのものであったでしょうか。最近は中国残留邦人そのものへの関心が薄れ、二世三世のネガティブなイメージばかりがクローズアップされることが多くなっていますが、なぜ中国残留邦人と呼ばれる人たちがいるのか、中国でどんな暮らしをしてきたのか、日本に帰国してからどんな苦労をしているのか、忘れることなく語り継ぐ必要があるのではないでしょうか。特に中国に関わる私たちは忘れてはいけないと思います。
日中学院でも中国残留邦人に対する日本語教室(1974年から1990年まで)を開いて支援をしていた時代があります。今回「語り部」として講話していただいた泉田さんもその教室で日本語を学んでいたお一人です。日中学院の卒業生の中にも中国残留邦人の支援に携わってきた同学が数多くいます。また、過去には何人もの残留孤児の二世三世が学院で学びました。
今年は戦後80年の節目の年にあたります。戦後80年が経ち社会の中国残留邦人等に対する関心はますます薄れています。中国残留邦人本人は高齢化しその体験を自分自身で語れる人が少なくなっています。この体験を歴史の証言としてしっかり記憶し、次世代へ語り継ぐことの重要性が高まっています。首都圏中国帰国者支援・交流センターでは、中国残留邦人等の体験や労苦を後世に継承することを目的とした「語り部」を育成し講話活動を行っています。「語り部」は高齢化し自分自身の体験を直接語ることが難しくなった中国残留邦人等から中国に取り残され残留邦人になった経緯から長年にわたる中国での生活、日本に帰国後の体験から現在の様子まで、中国残留邦人、中国からの帰国者としての体験や労苦を聞き取り、その体験を残留邦人に代わり伝える役目を担っています。 当日は中国残留邦人がどのように生まれ、長い時間を中国でどのように過ごしてきたのか、日本に帰国してからどんな問題があるのか等、中国残留邦人を理解するための映像を見た後で、お二人の「語り部」の話を聞きました。

語り部:巻口清美 【中国残留婦人、祖母シズの生涯】
巻口清美さんは祖母である残留婦人シズさんの苦難に満ちた生涯を語ってくださいました。
巻口清美さんは黒竜江省伊春市で生まれ、1982年16歳でことばもわからない見知らぬ国、日本に来られました。来日当初は生活習慣の違いやことばの壁に苦しみました。残留婦人である祖母のシズさんのことを話そうと思ったきっかけは、シズさんが綴った手記「追懐の情」を読んだことにあるといいます。2007年、シズさんの一周忌に伯父より手渡されました。
1913年(大正2年)、シズさんは新潟県柏崎市に生まれ、20歳で結婚。日本が第二次世界大戦に突入していった1942年シズさんが29歳の時、国が満蒙開拓団を募集し柏崎の「満蒙開拓団」として子ども5人を連れて「満洲」の現在の黒竜江省に渡ります。家も畑もなく医者もいませんでした。その場所は故郷にちなみ「柏崎村」と名付けられました。
しかし、厳しい開拓生活の中で三男を亡くします。1945年8月6日には夫が現地で召集され、同年8月のソ連参戦でシズさんは「満洲」で生まれた二人の子どもを加え6人の幼い子どもたちを連れて大混乱となった地を逃げ惑うことになります。若い娘は水田につかり頭だけ出していたといいます。敗戦もわからずやっとたどり着いた収容所では、周囲の避難民が栄養失調や伝染病で次々と亡くなっていきました。
その収容所も1946年3月10日に解散されたため、今度はハルビンを目指して再度の逃避行が始まりました。馬小屋のような家で過ごし食べ物もろくになく、寒さと飢えで苦しみました。しかし、シズさんは「自分ががんばらなければ…」と強く思ったそうです。
そんな中でシズさんも幼なかった2児を亡くしました。残った4人の子どもとともに逃避行を続けることもできずどうにもならない状況でした。当時の中国、特に農村部では嫁や労働力を求めていました。シズさんは、「今は生きるためにこの道しかない」と、中国人(王徳財)と家庭を持つことになったのです。最後の集団引き上げが開始された1953年、シズさんは中国人の夫との間にさらに二人の子供をもうけていました。幼子や家族を捨てて帰国することもできず、日本生まれの長男(当時19歳)だけを日本へ帰すことを決断します。日本人の夫はシベリアに抑留された後日本に帰り別の女性と再婚していました。その夫の死を知ったのは1965年、シズさんが52歳の時でした。
1958年になると日中の国交が途絶え更に帰国が難しくなりました。その後、シズさんは文化大革命の時には、「日本のスパイ」と言われながら貧しい農村で過ごしました。1972年、日中国交が正常化するまでの長い期間、日本への帰国の願いを抱きながらもなかなかその思いを果たすことができず、先に日本に帰した長男と手紙のやり取りを重ねながら帰国への糸口を探す日々が続きました。
1975年シズさんが62歳となった年、ようやく日本の地を踏むことがかないました。日本を離れてから実に33年ぶりの帰国でした。帰国後シズさんは中国に残してきた子どもたちとその家族、中国人の夫も日本に呼び寄せました。晩年は自分や家族が味わった理不尽な体験への悔しさを抱えながらも、故郷の柏崎で子や孫に囲まれながら最後まで自分にできることをやり通して、2006年93歳でその人生を終えました。

語り部:泉田俊英 【「中国残留孤児」 髙田俐の人生】
泉田俊英さんは父である残留孤児髙田俐(たかだ さとし)さんが歩んできた人生を語ってくださいました。
泉田さんは1981年17歳の時に家族4人で日本の地を踏みました。父は俐さん、母は中国人で、俐さんは日本語をほとんど忘れていました。
髙田俐さんは、1942年4月、6歳の時に祖父母と両親、そして兄と弟と妹の一家8人で、埼玉県の「楡林開拓団」として、当時の「満洲」牡丹江省(現黒竜江省)の寧安県楡林に渡りました。
俐さんの父親は1944年に現地で召集されました。1945年8月9日のソ連参戦で大混乱に陥った「満洲」の中を残された家族は悲惨な逃避行の末、9月23日11月末、やっとの思いで瀋陽の収容所にたどり着きました。そこで奇跡的に招集されていた父親と再会を果たします。しかし、この収容所での避難生活中に祖母、兄、父親を伝染病と栄養失調で失うことになります。俐さんの母親は子供を生かすために妹と俐さんを別々の中国人に預けることを決断しました。こうして俐さんは9歳で家族と別れ、たった一人中国で暮らすことになったのです。その後家族の行方はわからなくなりました。中国名張植林として生きていくことになります。
戦後の中国は内乱や政治的不安定な時代が続きましたが、幼い俐さんは家事や子守、近所の人たちの用事も引き受け、一生懸命働きました。その後、天津市で23歳の時中国人と結婚します。1960年代~70年代の文化大革命の時には、俐さんは「日本のスパイ」と疑われ、養父にもその追求が及び苦しい時代を過ごします。
日中国交正常化から4年後の1976年、養父が亡くなったことを契機に俐さんは日本の家族を探し始めます。そして、1980年2月、弟が見つかりました。その翌年、俐さんは妻と息子と娘の4人で日本へ帰国することとなり、39年ぶりに日本の土を踏むことがかなったのです。しかし、妹さんは行方不明のままでした。俐さんは日本の地を踏みしめる時、左足から?右足から?と迷い…、ジャンプして両足で日本に降り立ちました。これが38年間夢見た日本の国境を越える一歩でした。9歳から長い間中国で暮らしていた俐さんは日本語もほとんど忘れ、中国の文化生活様式の中で暮らしていたため、帰国後は言葉も文化も習慣も全く違う日本で苦労が続きます。帰国時の歓迎の横断幕が白地に黒字で書かれていたことから、中国のお葬式の時のようだと複雑な気持ちになったと言います。それでも1996年に長年勤めた工場を退職するまで懸命に働きました。朝暗い時間から夜遅くまで働き詰めだった俐さんは日中に外出することがなかったので「日本にはお日様がない…」と嘆いていたそうです。また、「馬のようによく働いた。来世はハトになりたい」とも言っています。俐さんは働きづくめで日本語をしっかり勉強できなかったので今も日本語を思うように話すことはできません。病院でも通訳が必要でした。俐さんは日本と中国、二つの祖国を持ちそれぞれの地で暮らしてきましたが、今、本当の落ち着き場所がどこかと問われても、すぐには答えが出ないそうです。
中国では「日本鬼子」と罵られ、日本に帰国しても「中国人」と言われ続ける中国残留孤児の多くが、この根無し草のような感覚を持って今も暮らしています。俐さんは今89歳、中国を懐かしむ思い、祖国への喪失感…、しかし、「日本人として日本の土に還りたい」と。(田中智秀記)