―1960年代に中国語を学んで
講師 櫨山健介先生
2024年7月13日、校友会主催で櫨山健介先生の講演会が行なわれました。
櫨山先生は1945年中国北京市で生まれ、翌年天津より帰国。早稲田大学在学中の1966年に倉石中国語講習会で中国語を学びました。1970年代に日中学院の本科専任講師として活躍され、学院の発展のために貢献されました。1980年代に遼寧大学や北京の大学で日本語専家を歴任し、その後、北京大学で中国語を研究されました。帰国後、早稲田大学で教鞭を執られ、中国語教育と中国研究に多くの足跡を残されました。
倉石中国語講習会で中国語を学んで
櫨山です。レジュメを配布しましたが、話す内容はパワーポイントにありますので、こちらを見てください。私は1945年北京で生まれ、1歳のときに日本に帰国しましたが、その時のことはまったく覚えていません。1964年に早稲田大学に入学しましたが、大学を選ぶときに中国語が勉強できるということでこの大学を選びました。当時は米軍の北爆が開始され、ベトナム戦争反対運動が起こりました。第二外国語で中国語を学んだのですが、大学で教わった六角恒廣先生と横山宏先生が倉石中国語講習会を勧めてくれました。それで、1966年4月、大学3年生の春に倉石中国語講習会のB班で3か月勉強しました。場所は飯田橋の善隣学生会館です。

その時の先生は山本信次先生で、50歳ぐらいで気象庁に勤務されていました。学生数は20名弱で、若いサラリーマンが多かったと思います。その年の6月には倉石講習会15周年で『東方紅』を参観し、感銘を受けました。そして、いったん倉石から離れましたが、大学の時間にゆとりができましたので、67年1月に別科D班に再入学したわけです。
そのときに善隣学生会館事件、これはその当時、中国留学生後楽寮自治会をはじめとした華僑学生と日本共産党系の日中友好協会が対立し、日共系の人たちが中国人を襲撃した事件です。警察官が導入されて善隣学生会館は立ち入り禁止になりました。ここでは授業ができないので分散授業です。まず最初に三宅坂の社会党本部に行くようにという張り紙がだされて、そこに行ったらそのあとの授業をどうするのかという説明が行なわれて、そのあとの授業、私が受けたクラスは、まずこの後ろにある小石川後楽園のなかにある涵徳亭で授業はひと月くらい行なったのかな?その後、飯田橋の先にある筑土八幡神宮内の会館、ここで授業が行なわれました。そのあと、翌年1968年8月に内山ビルに全面的に引っ越すようになったわけですけれど、それまでは長い間、私は筑土八幡神宮の会館で授業を受けたという記憶が濃厚です。私が倉石講習会B班で習った先生ですけれど、山本信次先生でした。どうも山本先生も倉石講習会で中国語を勉強された方のようです。そのあと、別科D班に入り、各地を転々として授業を受けていたときは、菱沼透先生に習いました。おそらくその当時菱沼先生は早稲田の大学院の学生だった頃だと思います。1967年9月倉石中国語講習会が解散になり、日中学院の別科に吸収されたというかたちになりました。そのとき私は準卒業、別科のE班ということで、みんなの前でクラスが分担して詩の朗読をしたことを覚えています。 このスライドは倉石中国語講習会解散式のときの倉石先生の写真、それから分散授業が終わって神田の内山書店に全面的に移っていきます。これは内山書店ビル時代の学院の写真です。今も同じ場所に内山書店さんはあります。今はもっときれいなビルになっています。


激動の時代に商社員として学び続けた中国語
そのあと私は1968年に大学を卒業して商社に勤めます。商社には3年半いたわけですけれど、その間に日中関係、あるいは中国を取り巻く世界の状況が大きく変わっていく時期でした。だいたい私が商社に入ったときに、3年から5年はここで働こうと、これは社会勉強だと。今後社会に巣立っていくための第一歩なので、3年から5年でいいだろうと、そのあとは様子を見ながら決めていこうというふうに就職したときには考えました。就職1年目は仕事を中心に考えて、2年目からまた日中学院の別科に通い始めたわけですけど、仕事に差支えないように週1回通っていました。そのときには、楊名時先生っていう太極拳の先生がいらっしゃったので、その先生の会話の授業を受けました。それから、牧田英二先生の北京放送の授業も1年ぐらい勉強しました。ちょうどこの頃から70年安保闘争っていうのが始まって、だいたい学校っていうのは凄まじくなるわけですけど、その前に日中学院の別科にはいろんな各セクトから流れてきた若い人たちが入ってきました。だけど非常にまじめな学生たちで大学を出て20代前半ぐらいの学生の人たちが多かったと思います。その当時、日中学院の別科で自治会を作ろうとかという運動が起きたりですね、あとそこから進んで語学共闘を作ろう。これはその当時、出入国管理法案っていうのができまして、それに反対する闘争です。特にこれは中国関係では日本政府が厳しく対処していまして、劉彩品さん、彼女は台湾から来た東大の学生です。その当時台湾は国民党政府が支配していて、日本政府は国民党政府を支持していました。中国政府に対しては、その当時日本政府は認めてなかったという事情があります。だから劉彩品さんは、中国政府支持っていうのを公言していましたので、彼女を台湾に送り返す方針でした。それからもう一つは、劉道昌君を守る会っていうのができまして、彼は福建省の漁民の息子だったわけです。お父さんと一緒に漁船に乗って日本に流れ着いた。日本政府は彼らもまた台湾に強制送還しようとした。そういうことがあって劉道昌君を守る会っていうのができていました。
こういった入管に反対する闘争っていうのが日中学院、それから特に中国語を教えていた東京の学校、東亜学院、アジア・アフリカ語学院、大きなところではそういった学校が語学共闘に参加していました。これは私もその当時、何回かデモに参加したことがありますけれど、晴海方面に集まって集会をやって機動隊から解散させられて一生懸命逃げたことを覚えています。
それからもう一つは、この当時から中国を取り巻く環境が非常に変わってきます。1971年にニクソンの訪中があります。その1年前ですけど、1970年にはカナダが中国と国交を回復しています。その当時から、中国のピンポン外交っていうのが非常に世界をにぎやかせます。中国を取り巻く環境っていうのが非常に良くなってきた頃です。私は1971年の夏に商社員を辞めました。そういうピンポン外交とか中国を取り巻く環境っていうのが非常に良くなってきた頃です。このへんで商社員を辞めて、もう一度何をするのか考えようっていうことで、辞めたわけですけれど、結局はその当時市ヶ谷に中国研究所の付設で中国語研修学校というのがありまして、日中学院とは別の組織ですが、そこの本科生に入りました。これは半年間の全日制の学校です。その当時はまだ中国語研修学校の本科生っていうのが、私と同期生が11人しかいなかったので、非常にまだ少なかった頃です。それから1年か2年後ぐらいに急激に学生数が増えていきます。中国語研修学校の本科を72年の3月に卒業します。
一つ話忘れたことがありました。1971年4月、まだ商社員をやっていて日中学院に通っている頃ですけれど、その当時、学校の夜の授業が始まる前に、以前教わった山本先生、私の倉石講習会でお世話になった先生が、授業後時間があるかどうか訪ねてこられて、「時間、大丈夫です」って言ったら、「じゃあ、内山書店の隣の居酒屋さんで待ってるから、ちょっと話があるので来るように」って言われて、それで授業が終わってからでかけて行ったんですけれど、その時に山本先生ともう1人、本科で教えられていた杉本達夫先生がいらっしゃいました。
最初ビールを飲んでいて、そのうち「櫨山君どうですか、日中学院で教える気はありませんか?」っていうふうに尋ねられて、私は最初は戸惑っていたわけですけど、「どうしてですか?」って聞いたら「日中学院は倉石講習会から、学生のなかから講師を養っていくようにしてるんだ」と言われました。これはそのとき、初めてその話を聞いて、そのときは私、断っているんです。というのは商社の仕事っていうのは時々、夜急な用事が入ってきて残業で泊まらなくちゃならないとか、そういうことが時々起こりますので、商社員をしている間は、それは無理だなと思って断りました。だけどその時思ったのは、そうか、そういう道もあるんだなっていうことです。そういう道も自分にはあるんだということが、そのときわかったということです。それはそのあとの自分の進路に非常に大きな役割を果たしていると思います。
倉石先生の面談を経て中国語教師の道に
1972年4月から中国語研修学校で教えるようになります。それと、日中学院の別科で毛沢東選集の講読っていう授業を担当するようになりました。中国語研修学校との掛け持ちをしていました。これは、私が日中学院の別科時代に教わった菱沼先生が担当していらっしゃって、私が中国語研修学校を卒業するときに、卒業後何をやりたいかって聞かれて、そのときは中国語教師になりたいというふうに言ったわけです。そしたらその後、研修学校で教えないかっていう話と、それから菱沼先生が当時担当していた別科の毛沢東選集講読の授業を担当しないかっていうお話をいただきました。それで、日中学院の別科でも教え始めることになりました。
その当時、毛沢東選集の講読を担当する話が決まったときに、倉石先生との面談がありますっていうことを初めて聞かされて、倉石先生は新しい講師になる人には一人ひとり全員面談していたみたいです。だけど、それは面接試験というほどではなくて、雑談という感じです。ちょうどその少し前に、私は体調を壊して入院したことがあるので、病気の話「体調いかがですか?」ってことで労わってもらった記憶があります。1972年の4月から中国語教師を始めるようになるわけですけど、すぐそのあと、田中角栄首相の訪中があって、日中国交回復っていうことになります。これが1972年9月です。そのあと、これで日中関係が良くなったので、日中学院や中国語学校の学生数が増えていきます。
本科専任講師就任と藤堂明保先生を学院長に
ところが一方、1975年に入り日中学院は倉石先生の病気が悪化したことや財政危機が起こり、多くの先生が辞められ、「日中学院崩壊説」が流れました。その年の11月に倉石先生が亡くなられましたが、当時の日中学院は大変で、ここにいる小田さんがその当時の話は一番詳しいんじゃないかなと思うんですけれど、事務局は一部アルバイト体制に移っていく。そういった時代が1年間ぐらい続いて、そのあと日中関係が非常に明るくなってきて学生数が増えていきます。事務局員のアルバイト体制もやめて本来の正式な職員体制に戻っていきます。その過程で本科でも専任講師が必要じゃないか、ということになって、そのときに「私がなります」っていうことで立候補して本科の専任講師になりました。それと同時に新しい学院長が日中学院に必要だっていう話、これは前から出ていたわけですけど、われわれのなかで藤堂先生にお願いしよう、おそらくその当時、藤堂先生一本やりってことで皆の意見っていうのは決まっていたようです。それで、江尻さんと小田さんと私3人で藤堂先生の自宅に行ってお願いしようっていうことになりました。江尻さんから「櫨山さん、あなたが専任講師なので口上を述べてよ」と言われ、藤堂先生に会って「藤堂先生、学院長になってぜひわれわれを指導してください」というふうにお願いしたわけです。そしたら藤堂先生から「私は指導なんてできません。このお話はお断りします」っていうふうに言われて、そのときには3人ですごすご一度日中学院に帰ってきて、そこでまたよく考えたんです。劉備玄徳が孔明を招くときに、3回劉備玄徳が行っています。その話が記憶にあったので、そうか最低3回は藤堂先生に会って口説かなくてはと思って、どうも、指導してくださいって言ったのがまずかったみたいだということに気がついて、また江尻さん、小田さんに一緒に行ってもらうように頼んで、ひと月後くらいですかね、また藤堂先生の自宅までお願いに行きました。今度は「藤堂先生、ぜひわれわれで日中学院を良くしていきませんか、ぜひ学院長になってください」というふうにお願いしたわけです。指導っていう言葉は避けました。「じゃあ、いいでしょう。学院長引き受けます」ということで、学院長を引き受けていただきました。それから先は日中学院が非常に明るくなった時期だと思います。学生数も増えてきたし、日中関係も非常に良くなってきたときです。
ところが本科ではそのあと大きな問題が起きまして、1976年のことですが、1月に周恩来が亡くなり、それから9月に毛沢東が亡くなって、これは学生に非常に大きな影響を与えました。ひょっとしたら中国終わるんじゃないかっていうような絶望感があったみたいです。特にこの時期、本科生たちは非常に脱力感に悩まされていた時期だと思います。それからあと本科の学生のなかの学生層が変わってきました。本科の学生というと、大学卒業生、就職をして辞めてきた人たちっていうのが多かったわけですけど、その時期から若い層っていうのが徐々に増えはじめた時期です。高校を卒業してすぐ来た人たちです。これは日本社会の変化だということだと思うんですけど、そのあとずっと10年から20年間ぐらいは、大学に行くのに次いで専門学校に行く学生たちが増え始めた時期です。その走りの時期だったと思うんです。われわれ教員もそれに対応できなかったっていうことがあると思います。学生たちのなかから、本科のカリキュラムを変えてほしい。もっと学生に寄り添ったカリキュラムに直してほしいっていうような意見が出てきました。 このスライドは神田校舎の文化祭のときの写真です。左端が藤堂先生、一人置いて牛島徳次先生、副学院長です。右端が私で、その隣が叶君海先生で研究科の担任です。その隣が陳志成先生、本科2年生の担任です。こちらのスライドは文化祭実行委員会の写真です。


1976年に毛沢東が亡くなって、その間中国は「四人組」というのがいろいろ牛耳っていて中国の政治がガタガタした時期です。だけどその後、「四人組」が逮捕されて1978年に中国が改革開放政策っていうのを始めます。これで一つは、特に日中間の交流が非常に変わってきます。こんなに変わってくるものかって思うほどです。
心を傾けた中国との交流と留学生派遣
1978年に「日中学院第一次かけ橋会訪中団」というのが結成されて、1979年3月に「日中学院第二次かけ橋会訪中団」というのが結成されます。このとき、松岡榮志さん、彼は東京学芸大学の先生をやっていた方ですけれど、彼から頼まれて団長をやってもらえないかっていうことで、私が団長になって松岡さんが秘書長ということで、30人ぐらいの学生を連れて訪中、中国旅行に行きます。上海、南京、西安、北京を訪問しました。このとき北京で竹中憲一さん、彼も日中学院で先生をやっておりましたけど、竹中さんと会って、彼はその頃、北京外国語学院付属外国語学校、日本で言えば中学校・高校にあたります。そこで日本語を教えていたわけです。彼から依頼されて学生たちと交流会をやりたいっていうことで、どこの公園かは忘れたんですけど、公園に行って付属外国語学校の学生さんたちと私たちの学生と交流会をやりました。そのときに、竹中さんから依頼されて、今中国で中国人の先生たちの日本での研修会っていうのを考えていると、「ぜひ協力してほしい。日本に行ったときのいろんな計画を立ててほしい」っていうふうに頼まれまして、それから日本に帰ってきて、中国日本語教師訪日代表団の受け入れを準備します。これは中国教育部普通教育司処長の岩明遠さんが団長になって、日中学院で3週間の研修を行なう。それから、そのほか文部省、外務省、国際交流基金などの表敬訪問、また関西への2泊ぐらいの旅行を最後に考えました。3週間の研修内容は、ここにいらっしゃる加納先生にお願いして計画してまいりました。このときわかったのは、中国風のやり方です。というのは、このあと研修が終わって大使館に挨拶に行ったんです。そしたらそのあと、日中学院から電話があって大使館から電話があったと、「大使館に来てほしい」っていう内容だという連絡を受けて、それで大使館を訪問します。
大使館は私自身、訪問するのはそのとき初めてだったんですけど、「この間はいろいろありがとうございました。日中学院から留学生を受け入れたい。人数は3人です」。それで、「わかりました」ってことで、日中学院に帰って人選を始めたわけです。その当時ここにいる高橋良一君が1人選ばれまして、ほかに松本智子さん。彼女は日中学院に帰ってきて日中学院で長年教えていましたけれど、それとあとは中島咲子さん。中島さんも帰ってきて日中学院で教えていました。3名決まったんですけれど、そのあと私、困っちゃいまして、もう1人ぜひ行きたいっていう学生がいまして、今日参加されている内山さんのお父さん。それとあと、2年生担当の陳志成先生からも「どうして2年生から出さないんだ」と、2年生からも要望が出ていたわけです。結局決まったのが本科研究科から2名、教員から1名という形で決まったわけなんですけれど、ちょっと頭抱えちゃいまして、また中国大使館へ行くことにしました。中国大使館に行って「もう2人増やして5名にしていただけないですか」っていうお願いをしたんですけど、大使館は「一応わかりました、本国と連絡をしてみます」っていうことで、その場は引きあげて帰ってきたんですけど、2週間後ぐらいに連絡があってもう一度来てほしい。でかけたら、「残念ながら人数を増やすことはできません」、そこで押し問答してもしょうがないので「わかりました」っていうふうに、こちらが引き下がったわけですけれど。どうも中国側のやり方は、こちらでやってあげると、その見返りで何かしてくれるようなことがあるみたいです。これは今後何かあったときに使えるかもしれません。
このスライドは中国日本語教師訪日代表団の方たちの写真です。どこか表敬訪問した時です。だけど先生たちを見ていると、みんな向こうの中学・高校で教えている先生でしょう。これは竹中さんの手の届く範囲内っていうことです。中央の開襟シャツの方が団長の岩明遠さんです。

忘れられない本科合宿でのできごと

これは1979年に西湖で行なった本科合宿でのコンパの写真ですが、その2年前だったと思うんですけれど、日中学院ではよく千葉県の岩井の民宿を合宿所に使っていました。だいたい日中学院で使っているのはそのぐらいですが、その年に行ったときに学生が遠泳がしたいっていうことで、遠くに出たんです、ボートを借りて、そしたら少し波が荒いときで、みんなもうヘトヘトになりながら帰ってきたのを覚えています。これはひょっとしたら危険な目にあったかもしれないっていうことがあって、海岸よりは少し山のほうで合宿をやりたいってことで、学生1人連れて河口湖、富士五湖、あの辺りでどっか合宿所のいいところはないかってことで探し、河口湖まで行ったときに、西湖に民宿が集まっているところがある、民宿村みたいなところがあるっていうことを知って、西湖に行ったわけです。わりと大きな民宿があって、そこで合宿をすることにしました。
このときも一つ事故があって、民宿のすぐ裏が西湖になっているわけです。そこから対岸までそんなに距離がないから「よし、みんな泳いで対岸に行こう」と、200メートルぐらい、対岸に向かって5、6人一緒に泳ぎ始めたんです。そしたら、真ん中を超えた3分の2ぐらいまで行ったときに、後ろの学生が「先生、駄目だ」足がつったみたいなんです。浮いたり沈んだり、ここにいる三井君ですけど。彼を支えながら50メートルぐらい泳いだのかな。「ああ、もうこっちも駄目だ」っていう思いになったときに、やっと対岸について、民宿まで帰って救急車を呼んでもらって一応病院に行って、民宿に帰ったわけです。彼は夕方にはケロっとしている。私はその日の夜から1週間ぐらい寝込んじゃいましたけど、そんなことがありました。
日本語専家として中国に赴任
それで、そのあと1980年から86年まで私は中国に行きます。日中学院を辞めて行きます。どうして日中学院を辞めたのかっていうことなんですけど、ちょうど本科で専任講師を4年間やっていたんです。最後の年の学生なんですけど、今日参加している高橋君や三井君には、1年生、2年生、3年生、3年間持ちまして、なかなか3年間持つというのは非常に滅多にない経験なんですけれど、これで3年間教えられるんだったら日本の学校なら、だいたいどこ行ってでも教えられるなっていうふうに思ったんですけれど、それで、じゃあ次の目標に何があるのか。日中学院で教え始めたのも自分の教師としての自分を鍛えたいっていうことで始めたのが日本での中国語教育ですので、一応当初の目標は達成できたのかなっていうことで、そのあと、中国現地に行って中国のことを理解したほうがいいんじゃないかという気持ちが強くなり中国に行く決心をしました。
その過程については、秋に事務局に来年(1980年)の3月いっぱいで日中学院を辞めたい。最初は2年後に帰ってくるので、帰ってきたら戻してくれないかっていうお願いをしたんですけど、小田さんから「駄目よ、そんなの」なんて断られまして、これは小田さんの言う通りだと。それはあとの人が困っちゃう。来年3月いっぱいで辞めます。その話を当時日中学院にいた伊藤克先生、翻訳家で有名な方で、中国のいろんな小説を日本語に翻訳されていた方ですが、その方が、おそらく事務局のほうからその話を聞かれたんだと思います。「櫨山さん、中国に行くつもりなんだって?じゃあ私が大使館に頼んであげるから、履歴書とそれからこれまで何か書いたものを2点ぐらい準備しなさい。それと藤堂学院長の推薦状も持ってきなさい」って言われまして、それを準備して伊藤克先生にお預けしたわけです。
そしたら、その年の11月頃に大使館のほうから連絡があって「大使館に来てほしい」というふうに言われまして、「実は瀋陽の遼寧大学で日本語の先生を必要としている。来年の2月から行けませんか」ということで、2月っていうのは中国の学期変わりです。中国側にとってはいいんですけれど、「私は2月は無理です。4月だったら中国へ行けます」とお話したら、「それでいいでしょう」っていうことで、4月に中国の遼寧大学に行くことが決まりました。
遼寧大学で私が最初に教えたクラスが77年級の学生たちです。これは1977年に大学に入った学生たちで、中国で統一試験が再開された最初の学生です。中国で対外開放政策をとるようになって、学生たち、若い人たちの外国への興味が非常に強くなって、もともと強かったわけですけど、外国に行ける可能性、外国人と接触する可能性があるっていうことで、外国語教育っていうのが非常に関心が高かった。そういったなかで、どんどん中国の大学で日本語学部、日本語学科、なかには中学校・高校で日本語学科というものがつくられるようになって、学生たちに人気のある学科になっていきました。
北京の大学で日本語専家、北京大学で中国語研究
そのあと北京に移って、北京で2年間日本語を教えました。そして、日本語を教えるのもこの辺かなと思って、4年間教えたので、経験としては十分、最後は日本に帰る前に自分の勉強をしとかなくちゃと思って、当時赴任していた大学に相談しました。大学での日本語教育はもういいと思ったので、「北京大学で中国語を勉強したい」というふうに伝えたわけです。そしたら「じゃあ、わかりました学校で手配します」ということでした。それからひと月後ぐらいあと、教育部から連絡があって「教育部に来てほしい」っていうことで出かけました。それで、北京大学に行くことが決まったわけですけれど、それでまあ日本語専家をやってて良かったことは、北京大学に行ったときに、北京大学の中文系の事務所に挨拶に行ったんですけど、そこで「専家を4年間やられたんですね。先生だったら、授業は先生の好きな授業を受けてください。もしその先生から何か言われたら、私に言ってください」っていうふうに言われました。それで好きな授業は全部受けることができた。それが非常に良かった点です。北京大学で1年間授業を聴いてまわり、2年目は論文の作成に集中しました。
当時は外国人と中国人の接触っていうのは、まだ非常に厳しかった頃です。それが非常に大きく変わってきたと私が感じたのは、そのあと中国で、さっき話したように対外開放政策が出て、日中間の交流っていうのが変わってきます。中国に訪中団を出せたり、中国から先生たちを呼んだり、そういう交流が盛んになってきます。そのあと、1989年に天安門事件が起こります。1992年に中国社会主義市場経済導入。中国の社会が非常に変わった、私が実感したのは社会主義市場経済導入が決まってからです。中国人が非常に外国人との接触とか交流に関して大胆になってきました。今まで中国人自身がセーブしていたものがあるんです。それを取っ払ってきたって感じがあります。だから、おそらく今の日中関係を考えた場合、それと逆回りしているわけです。これは中国政府の政策いかんだと思います。
中国に行ったのは36歳。41歳で日本に帰ってきました。これが私の1960年代、70年代、80年代の私の経験です。
中国語教育、中国研究への思い
これまで中国語教育に携わってきましたが、今も思うところがあります。私が中国から帰ってきて特に重点的に教え方で導入した方法ですけれど、音読法です。いかに中国語で正しく読んで、訳さないで自分で理解していく。これは大きいんじゃないかなって思います。難しい内容を音読するよりは、普通の中国人がスラスラ読めるようなもの、そういったものをスラスラ読んで、それを利用して自分で話す練習をするのが一番いいんじゃないかな。英語も音読法っていうのが最近重視されているみたいですけど、英語は難しいです。発音の変化が難しい。中国語・北京語はそんなに難しくないと思うんです。
だから、音読をもう少ししっかりするようにしたらいいんじゃないかと思います。日中学院で教えた最後の年に、1年生、2年生、3年生を連続して教えたクラスでヒアリングの授業を担当させられて、そのときに採用した教材が当時中国で出版された『希望个为什么』っていう読み物があります。これぐらいが何も考えなくて聴き取れる、会話に利用できる、作文に利用できる、まずそれぐらいの段階を目指すのがいいんじゃないかなと思って、そのときの研究科の材料に使ったわけです。それは今もそう思います。
これまでのことを振り返ってみると、中国語だけにとらわれず、ある時期では中国に関するスペシャリストになろうと、だから中国のことだったらなんでも勉強してやろうっていう気持ちを一時は持っていました。早稲田で教えるようになって、50ぐらいのときに私の先生から「君、中国経済もやってほしい」って言われて、それから中国経済の研究に取り組んだわけなんです。市場経済の導入が始まった直後に中国に1年間、在外研究ってことで北京大学に出かけまして、そのときには北京大学の経済学部に籍を置いたわけです。私がその前にいた1980年代は外国人は農村部に一切立ち入りすることができなかった。北京でも少し郊外に行くと外国人通行禁止とか、そういう看板が出ていました。ほとんどは都市だけで、そこから外には出られなかったっていうことがあります。
1994年、在外研究で行ったときは、だいたい希望した地域には旅行ができました。そのときには、中国山東省の農村部も日帰りで回りましたし、中国語学に関わらず、楽しいことがたくさんあるっていうふうに思いました。一時は中国に関しては何でも知っているスペシャリストになろうっていう考えもありました。
最後に、一つは私の勉強した時期っていうのは、なんとなく将来に希望が持てた時期です。将来は明るくなるぞという感じの時期でした。それがあったから頑張ってやれてこられたということがあると思います。
もう一つは今の日中関係はちょっと残念ながらそういう状況にはありません。だけどこういう状況も永遠に続くものではないと思っています。だからこれは、遅かれ早かれあと5年か10年か、それはわかりませんけれど、今の中国の政策って必ず変わると思っています。変化が生まれてくるもので、そうするとまた、違った状況が生まれてくると思います。皆さんそういうふうに将来明るい日が来るんだっていうことを考えて待っていてください。これが皆さんにお願いしたいことです。
(講演内容に質問部分〈一部〉を加筆、全体を一部修正)